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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1993年受賞

馬渕 明子(まぶち あきこ)

『美のヤヌス ―― テオフィール・トレと19世紀美術批評』

(スカイドア)

1947年、神奈川県茅ヶ崎市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。
この間、パリ第4大学に留学。
著書:『クロード・モネ(25人の画家・7)』(講談社)、『フラゴナール(世界の大画家・20)』(中央公論社)など。

『美のヤヌス ―― テオフィール・トレと19世紀美術批評』

 本書は、美術ジャーナリストのテオフィール・トレと美術史家のウィリアム・ビュルガーというふたつの顔を持つ異色の批評家の生涯の軌跡とその業績を丹念に跡づけて、19世紀美術批評史のなかに位置づけようとした労作である。トレの名前は、完全に忘れ去られたとは言わないまでも、ボードレールやゴーティエなどの有名な批評家の蔭に追いやられて、その批評を思い出す者は稀である。また、ビュルガーについては、もっぱら忘れられた天才フェルメールの発見者としての功績が語られるのが普通であった。著者は、西欧においてもあまり注目されることのないこの批評家と眞正面から取組み、同時代の多くの資料や先行研究を渉獵して、その批評の特質と意義を明らかにすると同時に、その特異な人間像に迫ることにも成功している。
 七月王政期に急速に拡大と変貌を見せるようになった美術展覧会の批評家としてのトレについては、著者は、彼の批評を対象となった作品、および他の批評家の評價と丹念に比較考究することによって、彼が従来のアカデミズムの價値の序列には捉われずに何よりも作品に「独創性」「自発性」「詩情」を求め、それ故にロマン主義的價値観の最初の唱導者の一人となったこと、その具体的表れとして新しい風景画のあるべき方向をいち早く見定め、特に「サロン」から拒否され続けていたテオド-ル・ルソーの美質を早くから見抜いたこと、そしてそれに伴ってトレが印象派の課題をも先取りしていたことなどが説き明かされる。それと同時に、例えばヴァランシエンヌの風景画論との比較や、骨相学への関心を通して、同時代の美術思潮も明瞭に描き出される。後に登場するボードレールとの関係を新たに掘り起こし、ボードレールの批評がトレの見方に多くを負っていることを実証して見せたのも、手柄と言うべきであろう。
 ビュルガーに関しては、フェルメールをはじめとするオランダ絵画の紹介者としての功績をあらためて明確にすると同時に、オランダ絵画がラファエルロを頂点とするアカデミズム美学を相対化する役割を演じた点を指摘しているのは重要である。この点において、後半生の美術史家は若い日の批評家とつながるからである。
 このようなふたつの顔を持ったトレ=ビュルガーは、また行動的な社会主義者としての一面も持っていた。その行動的情熱が彼の生涯をふたつに分ける10年間の亡命生活の原因ともなるのだが、出来るかぎりの資料を追い求める熱意と堅実な方法論によって、亡命時代の謎の部分も含めてトレの生涯を跡づけたことも、見逃し得ない功績である。トレの明晰さと情熱に魅せられた著者は、同じ明晰さと情熱を分かち持っているように見える。今後は、本書にもしばしば触れられている他の批評家たちを通して、19世紀の問題をさらに展開させて行くことが期待されよう。

高階 秀爾(国立西洋美術館館長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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