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サントリー文化財団トップ > サントリー学芸賞 > 受賞者一覧・選評 > 杉田 英明『事物の声 絵画の詩 ―― アラブ・ペルシア文学とイスラム美術』

サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1993年受賞

杉田 英明(すぎた ひであき)

『事物の声 絵画の詩 ―― アラブ・ペルシア文学とイスラム美術』

(平凡社)

1956年、東京都新宿区生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。
東京大学教養学部助手、専任講師を経て、現在、東京大学教養学部助教授。

『事物の声 絵画の詩 ―― アラブ・ペルシア文学とイスラム美術』

 530余頁のこの美しい一冊を手にし、おもむろにひもどいてゆくと、日本の人文学、その一分野としての日本の外国文化研究も、ついにこれほどのひろがりと高さとに達したのかと、感嘆とよろこびの気持ちが、心のなかばかりか、体内にまで湧きのぼってくる。
 巻末には120頁にもおよぶ「注」(この「注」がまたさまざまな枝葉を伸ばしていて、興味深い)と「参考文献一覧」、「図版一覧」と「索引」がついていて、この本の学術書としての水も洩らさぬ完成度を示し、ずっしりとした重さはまことに手に心地よい。そして中身は、オリエント文化の広大な時空を眺めわたしながら、それを代表する物(事物)と絵と詩とをいきいきと精密に読みといてゆく。36歳の青年学者がなしとげた研究としては驚くべき視野の広さと洞察の透徹を擁していながら、文章は端麗にして明快、随所に引用されるアラブ、ペルシアの詩の訳にいたっては、そのまま詞華選におさめてもよいほどに精緻で美しい。この重厚な一冊を通じてオリエントの世界の風物は深い奥ゆきを保ったままあざやかによみがえり、そのなかを香ぐわしい光と風が流れてゆく。
 中世イスラム世界における美術と文学との相関関係――と一口には言っても、それは時間的には西暦7世紀初頭のイスラムの勃興から、17、8世紀までの約一千年におよび、空間的には東のウイグル、カーブルから、イスファン、バグダッド、カイロをへて、西のマグレブ、アンダルースにまでいたる地域をおおう。この世界に先行する文明としてのギリシアの古典古代、ササン朝のペルシア、そしてこの世界を継承する文明としての近代ヨーロッパも、要所要所で見晴るかされている。
 広大無辺といってもよいようなこのオリエント世界のなかから、著者杉田博士は、「美術品としての科学機器」としてアストロラーベ(天体観測儀)とコンパス、「絵画表現の伝統」して浴場の壁画と酒杯の絵柄、「装飾物への眼差し」として絨毯と噴水とを選んだ。そしてそれらの「事物」がアラブとペルシアの詩・散文のなかにどのように表象されているかを論じ、その分明史的意味を考察していったのである。
 「広大無辺」のなかからの実に巧みな焦点の選択ではなかろうか。そしてそのフォーカスのよさによって、「広大無辺」はたしかに鮮やかにここに映しとられたのである。この書物を手にしたならば、アラビア学の前嶋信次、イスラム学の井筒俊彦、中国学の石田幹之助、青木正児、吉川幸次郎、そして比較文学の島田謹二、ドイツ学の菊地榮一、人文地理学の飯塚浩二氏ら、現代日本人文学のいまは亡き大先達たちは、みなよろこびの声をあげ、自分たちもいつかはこのような研究を仕上げてみたかったのだと叫んだにちがいない。東大駒場の比較文学比較文化の杉田氏は、まさにこの先達たちの負託にこたえたのである。
 この書物は学士院賞にこそふさわしい、との声は選考委員会のなかにもあった。だが、それに先立ってサントリー学芸賞とすることを、同委員会は満場一致できめたのである。

芳賀 徹(国際日本文化研究センター教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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