選評
政治・経済 1991年受賞
『市場の秩序学 ―― 反均衡から複雑系へ』
(筑摩書房)
1943年、長野県塩尻市生まれ。
京都大学大学院理学研究科修士課程修了。
京都大学理学部数学科助手、同経済研究所助手、大阪市立大学経済学部助教授を経て、現在、大阪市立大学経済学部教授。この間、ニース大学、パリ第7大学、パリ第9大学に留学。
著書:『数理経済学の基礎』(朝倉書店)、『近代経済学の反省』(日本経済新聞社)など。
この書物は経済学の現状を批判するエッセイであり、それとして見事に成功している。経済学の現状を憂えるのはある意味で流行で、思い付きの放言やイデオロギー的告発の類も多いが、その中でこの塩沢氏の本には内実を伴った閃きがある。たしかに、残念ながら現在の主流派経済学は今日の現実の要請に十分応えているとは言い難い。経済成長、その核になっている技術革新、世界経済の鍵を握っている変動為替レート制など、最も経済らしい経済的事実を的確に分析していない。このままでは、経済学は政治的な市場自由主義の単なる婢女になってしまうおそれがある。
このような低迷の原因にはもちろん様々な説が考えられるが、主流派経済学の理論のメソドロジーに問題があるという説が無視できなくなってきた。塩沢氏の議論はこのようなラディカルだが内在的な批判の立場の一例である。氏によれば、現在の経済学の基礎になっている「一般均衡」の概念、ひいてはその背景にある古典力学型の方法論がそもそも経済の現実に相応しくないのである。しかし古典力学的方法のもつ簡明さは明らかに棄て難い。その簡明性を捨てて前進することは只ならぬ知的作業だが、おそらく二つの科学分野での発展が手引になるだろう。一つは、最近急速に発達しつつある生物学・生態学だが、もう一つは、不平衡の熱力学の発展である。この分野では、一般にはプリゴジンの名前が有名だが、ハーケンやアイゲンなどの仕事が無視できない。塩沢氏の試みもこの系列に属しており、「均衡」の代わりに「非平衡の定常状態」という熱力学的な概念を提唱し、いくつかの雛型となる分析例をスケッチしている。経済の現実は諸処にアソビやユトリを含みながら、しかも全体としてある種の定常性を示すところに特徴があり、剛体の運動力学のような堅い枠組では近似できないと氏は主張し、巧みな比喩と例によってこのことを読者に印象づけている。
実はこのようにして、塩沢氏の本は単なる現状診断でなく、現状突破の方向を示す試みでもある。しかしそれにも関わらず、あえて私が最初に「経済学の現状を批判するエッセイ」という言い方をしたのは、この本に関するかぎり、突破の理論の具体的な内容が未だ十分示されていないからである。伝え聞けば、塩沢氏は数学や物理学について卓抜な力をもつ人と聞く。この本の議論に留まったのでは、有言不実行という凡百の経済学批判と同一視される恐れがある。また現評者のように塩沢氏の立場に同情的な者としても、たとえば、氏のいう「生成の論理」、経済学でいえば成長ないし発展の理論が「非平衡の定常状態」の議論から導き出せるものかが気になったりする。次作では、核心的な問題に正面から取り組んで氏の方法の意味を明らかにすることを是非期待したい。しかしこのような期待を含んだ深読みを差し控えたとしても、この本が知的刺激に溢れ、鮮やかに語られたエッセイであるという事実には些かも変わりないだろう。
村上 泰亮(国際大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)