選評
芸術・文学 1991年受賞
『デジタル・ナルシス ―― 情報科学パイオニアたちの欲望』
(岩波書店)
1948年、東京都生まれ。
東京大学工学部計数工学科卒業。
株式会社日立製作所に勤務しコンピュータ・システムの研究に従事。この間、スタンフォード大学に客員研究員として留学。1986年同社を退職、明治大学助教授を経て、現在、明治大学教授。
著書:『秘術としてのAI思考』(筑摩書房)、『AI―人工知能のコンセプト』(講談社)、『文科系のコンピュータ事始』(有斐閣)
私は『デジタル・ナルシス』の紹介者として決して適任者ではない。理由は西垣通氏がここで論じている情報科学の開拓者たちの仕事について、実にわずかなことしか知っていないからである。
しかし、その同じ理由によって、私はこの本をまだ読んでいない人々に対し推薦する資格もあるだろうと思っている。それは私たちの文明が今、情報機械という高性能の文化伝達装置によって根本的に揺り動かされており、文学や芸術、思想や風俗、すべてがこの趨勢を分担し合っているからである。
ごく少数のエリートを除けば、私たちはほとんどみな、文明のこの新段階については無知である。この新文明の由来、現状、行方について教えてくれる著者が待望されるのは当然である。『デジタル・ナルシス』はその意味で、出るべくして出た事態解明の書である。語り口は明快だが、この種の問題に関する啓蒙的入門書にありがちな、味も素気もないような本とは全く類を異にしている。西垣氏は情報工学の気鋭の推進者としてコンピュータ・システム開発に取り組んできた人だが、同時に文学・芸術に関する知識・教養の豊かさは並みのものではない。
いうまでもなく、はてしなく発達しつつある情報機械は、デジタルな形式操作の威力によって、私たちが住み慣れていた情報空間を急速に変貌させつつある。それは情報から旧来の意味や価値を容赦なく剥奪するだけでなく、新たな情報体系を編み出し、それによって私たちの生活を根本的に変容させてゆく可能性を秘めている。しかもそれは、底知れぬ魅力をももっている。その魅力は情報機械が作り出すメディア空間が、脳神経に対して抗しがたいエロスの牽引を感じさせる性質をもっていることからも来ている。
西垣氏はこの本で、ノイマン、チューリング、バベッジ、シャノン、ベイトソンそしてウィーナーという20世紀情報科学の6人の巨人の業績を、その実生活、とくにそれぞれの人格のうちに潜む欲望とパトスの秘密に焦点をあてて追跡し、純粋な形式操作の上に成り立っているように見える情報科学という学問が、いかに各人の人間的ドラマと不可分なものとして成立しているかを明らかにしている。 その意味で、ここには情報科学に関する哲学があり、物語がある。西垣氏はライプニッツ、フーリエ、メルヴィル、ジャリ、プルースト、バトラー、エーコ、あるいは映画「ゴーレム」その他、思想・文学・芸術の諸作品をたえずこの物語の中に織りこんで、科学と人間の織りなすドラマの叙述を一層生彩あるものにしている。
情報科学の未来についての深い不安から出発しつつ、機械と人間(自然)とのより高次の共存を真剣にさぐっている気鋭の情報工学者、最先端の情報文化論者の、まことに時宜を得た本質的な著作の出現を喜び、著者の今後の活躍に期待する。
大岡 信(詩人、東京芸術大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)