選評
芸術・文学 1991年受賞
『中世のことばと絵 ―― 絵巻は訴える』を中心として
(中央公論社)
1946年、山梨県甲府市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
東京大学文学部助手、神戸大学文学部専任講師、お茶の水女子大学文教育学部助教授を経て、現在、東京大学文学部助教授。
著書:『平家物語、史と説話』(平凡社)、『吾妻鏡の方法』(吉川弘文館)、『藤原定家の時代』(岩波書店)、『院政期社会の研究』(山川出版社)など。
五味文彦氏の『中世のことばと絵』は、鎌倉時代の絵巻『絵師草紙』の成立と内容について、大胆新鮮な解釈を提示した野心的な力作である。ある貧しい絵師が知行国を賜わって大いに喜ぶところから始まるこの絵巻は、その後のさまざまの紛争と絵師の苦労を主要なテーマとしているが、これまで、その内容は単なるフィクションであると考えられていた。それに対して、五味氏は、語られていることはいずれも実際にあったことであり、絵巻は、絵師が自分の立場を訴えるための絵による「訴状」であるという新しい見解を提出し、多くの資料を渉獵して、事件の再構成を試みている。画中のさまざまの手がかりを読み解きながら、次々と展開される推論は、多くの点で充分に説得力を持ち、同時に、豊かな知的刺激を与えてくれるもので、読者は、著者とともに、隠されていた過去の事実が次第に明らかにされて行く現場に立ち会うこととなる。それは、従来もっぱら美術史的視点のみから見られていた絵巻に対して、歴史学の立場から新しいアプローチを試みたものであり、美術作品の読解に重要な貢献を果たすものと言ってよいであろう。
五味氏には、すでに『院政期社会の研究』の重厚な労作をはじめ、『平家物語、史と説話』、『吾妻鏡の方法』などの多くの著書がある。それらにおいて、五味氏は、例えば橘成季の『古今著聞集』に収められた説話が多くの実際の素材をどのように取り入れたか、そしてそれらの説話を通して当時の社会の実情にどこまで迫ることが出来るかについての詳細な研究や、あるいは鎌倉時代の訴訟のあり方に関する知見を発表している。そのような多年の成果の蓄積を背景として、『絵師草紙』が実は『絵師中文絵巻』とも呼ぶべき実際の訴状であったという新しい見解が生まれて来るのである。その意味で、『中世のことばと絵』は、従来の著者の業績を基盤として、さらに新しい領域に一歩を踏み出した貴重な試みと言えよう。
五味氏の学問の大きな特色のひとつは、綿密広範な資料の渉獵と並んで、その卓抜な構想力にある。単に資料の表面的意味を解読するだけでなく、その奥に歴史の骨組を見出そうとする清新な視点がつねに生きているのである。例えば、そのことは、『古事記』と『日本書紀』、『平家物語』と『愚管抄』、『曾我物語』と『吾妻鏡』を、それぞれ同一の歴史的事件に対する「神話」と「歴史」のふたつのアプローチを示すペアーの作品だと見る見方に端的に表われている。それは、今後とも豊かな成果を約束してくれるものであろう。
もとより、『絵師草紙』について言えば、個々のイメージの解釈や著者の提言に対して、美術史の立場からの批判や反論も予想される。だがともすれば自己の狭い領域に閉じこもりがちの学問研究の分野において、歴史、文学、美術の多様な分野にわたる議論は、これからますます必要とされるに違いない。
高階 秀爾(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)