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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1991年受賞

鹿島 茂(かしま しげる)

『馬車が買いたい! ―― 19世紀パリ・イマジネール』

(白水社)

1949年、横浜市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位修得退学。
共立女子大学文芸学部専任講師を経て、現在、共立女子大学文芸学部助教授。
著書:『「レ・ミゼラブル」百六景』(文藝春秋)、『新聞王伝説・パリと世界を征服した男ジラルダン』(筑摩書房)

『馬車が買いたい! ―― 19世紀パリ・イマジネール』

 バルザック、スタンダール、フロベール、ユゴーの諸作をはじめ、19世紀フランスの小説にはしきりに馬車が登場する。一口に馬車といっても、二頭立て、一頭立て、四輪、二輪、箱型、無蓋と、型も種類もさまざまだが、われわれ日本人の読者にとってはどんな馬車も馬が引く乗物というにすぎず、その種別や社会的風俗的意味合いにまで気を配って読むことはほとんどなかった。
 それに対して、ちょっとお待ちなさい、そんな粗っぽい読み方では当時の小説を読み違える、その作中を往来する馬車は物語の単なる小道具ではなく、「すぐれて階級的な文化であったフランス文化の特質をもっとも端的に表わしている事物(オブジェ)」なのであって、「馬車の正確な理解なくして19世紀フランス文学の理解もありえない」と断じたのが鹿島茂。そして、そのゆえんを綿密な調査をもとにきれいに論証してのけたのが、『馬車が買いたい!』である。
 由来、日本人学者の手になるフランス文学研究といえば、現地産の研究の亜流もしくは落穂拾いというのがほとんどで、個々の作品や文学思潮の肝要なところを自前で調査し解明した研究はきわめてまれ。『馬車が買いたい!』はそのまれな例外に属する。それだけではない、この本のすばらしいところは、専門的な研究でありながら、一般の読者をも楽しませ、うなずかせる興味津々たる物語に仕立てられていることである。
 著者がこの本の想を得たのは、自動車でフランスの田舎を遍歴するうち、どの町にも「パリ通り」「パリ街道」と呼ばれる通りが存在し、しかもそれがきまって「町外れのうらさびれた場所」にあることに不審を覚えたのがきっかけだった。やがて彼は、その通りが「町からパリに向かって出発する際に最後に通る道」だったことに気づき、バルザック『ゴリオ爺さん』やフロベール『感情教育』の若い主人公たちもパリをめざして、乗合馬車でここを駆け抜けて行ったことに思い当る。研究書には珍しい巧みな導入部で、抜き打ちに読者をこの本の世界にとりこんでしまう。
 折しも時代はナポレオン帝政崩壊後のフランス流ブルジョワ社会の発展期、パリの社交界や上流社会で世俗的な成功を収めることが当時の野心的な地方青年の夢だった。そして、その夢を満たすための第一階梯が自分の馬車を持つことだったのである。鹿島茂は、バルザックやフロベールの青春小説の主人公は作者の分身であると同時に、そうした青年の類型であったと見定め、パリに着いてからの彼らが成功を夢みつつ、平たくいえば「馬車が買いたい!」と念じつつ、どんな生活を送っていったか、その航跡を具体的かつ印象的に描きだし、19世紀フランス文学における馬車の役割の大いさを解き明してゆく。
 思わせぶりな文学概念をひけらかすという、フランス文学評論にありがちな弊風に陥らず、終始平明に語ることにつとめているのも好もしい。

向井 敏(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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