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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1990年受賞

西村 清和(にしむら きよかず)

『遊びの現象学』

(勁草書房)

1948年、京都市生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位修得退学。
岡山大学法文学部助手、同講師、埼玉大学教養学部助教授を経て、現在、埼玉大学教養学部教授。この間、ミュンヘン大学にドイツ学術交流会奨学生として留学。

『遊びの現象学』

 いささか唐突であるが、西村氏のこの労作を読んで、ベートーヴェンの第九交響曲を連想させられた。といっても、受賞の決定が東西ドイツの統合の日に近かったからとか、贈呈式が行われる頃には、日本のあちこちでそろそろこの交響曲の演奏が行われるからという理由のためではない。両者の構成に似たものが認められるからである。よく知られているように、ベートーヴェンのこの曲では、初めの三つの楽章で「喜び」のさまざまな姿が呈示されるが、終楽章に入ると、それらはすべて真実ならざるものとして打消されて、「おゝ友よ。これらの響きにはあらで、さらにうましき音と全き喜びに合わせん」と唱われ、真の歓喜が壮大な声楽曲として奏でられる。同じように(ただし順序が逆ではあるが)西村氏のこの書物では、初めの数章で「遊び」について著者が考えぬいた真実の概念が提示され、以下の章ではこれを基準にして多くの伝統的な考え方が鋭く俎上に載せられる。
 著者の指摘するように、近代産業社会のイデオロギーでは、「遊び」は厳粛な人生の余白としての幼児期の営みか、労働の余白としての余暇の補完としてしかその意味を認められなかったし、19世紀の実証科学の時代には、それは実証的認識の対象であるような自然・社会・文化のコンテクストに還元されてしまった。「遊び」がそれ自体として問われるのは、20世紀も半ばになってからである(そうなる必然性はいわゆる脱産業社会の文明史的精神構造から明らかであろう)が、そうなっても「遊び」は依然として非現実・非日常・未成熟・模倣・代償・仮象という否定的な文脈においてしか把握されないことが多い。
 これに対して西村氏は「遊び」を「物との独特な関係」を含んだ「人間存在の基本的な様態」という、独自の構造をもった根源的・自体的・本質的・自己目的的な現象として、これに実在的な意味を認める。しかも「遊び」はもともと「游動」であり、自在な戯れであるから、人間を「…を遊ぶ」のではなくて、「…に遊ぶ」のであり、それはまた「期待に満たされた猶予としての不在」のなかにあって「遊びを遊ぶ」ことにほかならない。
 「遊び」に関するこのような基本テーゼを導出するにあたって、著者は幼児の遊戯などのようなきわめて多くの日常的現象を見凝め、現象のうちに本質を直観するという現象学的手法を用いるが、その議論は説得力がある。さらにこのような基本視点に拠って著者は「遊び」に関する多くの学説を論難するが、その視野は充分に広く、そのポレミックなエネルギーは高い。
 私たちが現代の文明的状況のなかで直面せざるをえない「遊び」の諸相の根本にあるものを洞察した本書は「遊びの思想」として高い評価を受けるに値しよう。ただ惜しむらくは、例えば江戸期の市民社会に見られるような日本の「遊び」についての言及がないことは、読者に一抹の寂しさを覚えさせるであろう。

中埜 肇(放送大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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