選評
芸術・文学 1989年受賞
『聴衆の誕生 ―― ポスト・モダン時代の音楽文化』
(春秋社)
1953年、千葉市生まれ。
東京大学大学院博士課程(美学芸術学)修了。
東京大学文学部助手を経て、現在、玉川大学文学部専任講師。
音楽の作品と演奏について論じた書物は数多くあるが、音楽の聴衆を真正面から取り扱った書物は日本はもちろんのこと、外国でも珍しい。本書は、西欧近代社会の成立とともに誕生した「近代的聴衆」が動揺、崩壊し、ポスト・モダン的状況のなかで「軽やかな」聴衆へと変貌していく過程を、広く音楽及び芸術文化全般の動向のなかで捉えようとした極めてユニークな書物である。
近代市民社会の成立にともなう演奏会の商業化や「巨匠」の神話化、さらには大真面目な音楽の集中的聴取を論じた第1章、1920年代の「複製」文化、一世を風靡した自動ピアノ、宣伝戦略に乗せられる大衆、大衆文化と「前衛」のはざまで揺れる近代的聴衆を扱った第2章は、華やかなロマン派音楽の展開の影に隠れて見過ごされがちな諸問題を聴衆という視点で捉えた優れた文化史となっている。
これに反して「カタログ化現象」、「巨匠」の脱神話化、「キット」としての演奏、企業の文化戦略の担い手としての「クラシック」、「一億総音楽学者」現象、ブーニン・シンドローム、第9フィーバー等を実例として近代的聴衆の崩壊を論じる第3章、マーラーやサティの流行、ミニマル・ミュージックや「環境音楽」を材料に新しい時代を代表する「軽やかな」聴衆の誕生を論じた第4章では、筆者は音楽社会学的音楽文化論的視野に立って、現代及び近未来のポスト・モダン的状況を解析しようとする。
筆者は、現代の消費社会のなかで誕生した「軽やかな」聴衆のうちに、音そのものの復権への可能性を見出し、また消費社会のなかの「クラシック」に「路上観察学的感性」の発動の萌芽を見ようとする。第4章末尾のこの結論は、音楽文化の未来についての予言にあたるので、やや歯切れが悪いように思えるが、それはまた古い世代からの攻撃の標的となる「軽やかな」聴衆に積極的意味を見出そうとする筆者の精一杯の前向きの発想の表れと読み取ってよいであろう。
いずれにせよ、音楽の「精神性」とそれを取り巻くアウラにそこはかとない郷愁を感じる読者にとっては、本書は強烈なショックを与えるであろう。しかし諸芸術のなかで音楽だけが旧態依然の聴衆を相手にしているわけにはいかない。筆者は、聴衆の問題を切り口として極めて尖鋭な仕方で芸術の現代性の問題にアプローチすることに成功している。その意味で本書は、単に音楽関係の読者の興味をひくのみならず、現代と近未来の文化に関心を寄せる多くの読者に推薦するに値する書物である。
新進気鋭の渡辺裕氏が、更にその視野を広げ、新たな切り口で大衆音楽論やコマーシャル音楽論等に挑戦してくれることを期待してやまない。
谷村 晃(大阪大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)