選評
芸術・文学 1989年受賞
『ブリューゲルの「子供の遊戯」 ―― 遊びの図像学』
(未来社)
1936年、新潟県上越市生まれ。
お茶の水女子大学哲学科卒業の後、米ブリンマー・カレッジ大学院美術史学科修士課程卒業。
東京工芸大学助教授、明治大学工学部助教授を経て、現在、明治大学理工学部教授。この間、国際基督教大学比較文化学科にて学術博士号取得。
著書:『ブリューゲル全作品』(中央公論社)、『ホーガスの銅版画』(岩崎美術社)など。
ブリューゲルについての文献は、むろん西欧語によって書かれたものが大部分だが、文字通り汗牛充棟もただならぬほどである。当然、その代表作のひとつである「子供の遊戯」についても、多くの研究がなされて来た。しかし、本書ほど徹底してその内容を詳細に考究し、分析したものは、国際的に見ても、他にない。この作品には、二百数十人の子供たちと91種類の「遊び」が描き出されているが、著者は、それらの「遊び」のひとつひとつについて、それに使われる道具、遊び方、その歴史的発展、さらには、その遊びを謳ったさまぎまの詩やそこにこめられた寓意、時には同種の日本の遊びとの比較などを、多数の文献を渉猟して綿密に調べ上げている。それは、ちょうどブリューゲルの作品そのものがそうであるように、いわば「遊び」の百科全書と言ってもよい豊富な内容を持っているのである。
われわれに多くの知識を与えてくれるこの図像学的研究の部分だけでも、本書の価値は大きなものと言わなければならないであろう。だが著者はさらに、作品の解釈についても、独自な新しい仮説を提唱している。これまでにも、この作品について、さまざまの解釈がなされて来たが、特に近年においては、それは罪深い大人のさまざまの愚行を反映した「倒錯した世界」の表現であるとする解釈が多く行われて来た。つまりブリューゲルの意図は、子供の遊びを借りて実は大人の世界を諷刺的、あるいは教訓的に表現したものだと見る解釈である。ストリッドベックやハインドマンによって代表されるこのような「大人の愚行の縮図」説は、国際的に見て、定説とまでは言わないにしても学界の主流であると言ってよいが、本書は、それに対し、ここに描かれているのは飽くまでも「大人」とは別の「子供」の世界であり、「遊び」を通して見た「子供のユートピア」の表現であるとする解釈を、明快に、しかも充分な説得力をもって主張している。この解釈は、作品の本質をいっそう鋭く照らし出すものであると同時に、ブリューゲルという芸術家の理解を大きく進める点でも、重要な学問的功績と言わなければならない。
このような著者の視点は、さらに、社会史の領域においても重要な一石を投ずるものとなるであろう。それは、17世紀以前の西欧では、子供はいわば「小さな大人」であって、子供独自の世界は存在しなかったというアリエスなどの見方に、強く修正を迫るものだからである。評者はアリエスの貢献を高く評価するものであるが、そのあまりに近代主義的見方に多く修正の余地があると考える点では、本書の著者に賛成する。美術史のみならず、社会史、文化史、教育史の広い分野にわたって多年の研究成果を見事に提示して見せた著者に深く敬意を表したい。
高階 秀爾(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)