サントリー文化財団

menu

サントリー文化財団トップ > サントリー学芸賞 > 受賞者一覧・選評 > 長島 伸一『世紀末までの大英帝国 ―― 近代イギリス社会生活史素描』

サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1987年受賞

長島 伸一(ながしま しんいち)

『世紀末までの大英帝国 ―― 近代イギリス社会生活史素描』

(法政大学出版局)

1947年、横浜市生まれ。
法政大学大学院社会科学研究科博士課程修了。
現在、長野大学産業社会学部講師。

『世紀末までの大英帝国 ―― 近代イギリス社会生活史素描』

 『文章読本』の中で、丸谷才一氏が「文章はキザに書け」というススメを書いておられたと記憶する。いい意味での気負い、衒気が文章に緊張感を生み、読むものを惹きつけるということであろう。それを地で行ったのが本書だというと著者は苦笑されるだろうか。まず「はしがき」に夏目漱石の「十八世紀の英文学」の講義録を出し、「あとがき」にその書簡を引用するなどはその最たるもの。また博覧強記、博引旁証という言葉そのままに、それぞれの時代の同時代人の生の証言をいたるところにちりばめる。こうした引用は、往々にして繁雑さをさえ感じさせるものだが、鮮やかな手並みをみせて倦ませない。
 それでいて正攻法なのである。本書が「大学における講義ノートを下敷きにして」書きおろされたためであろう。「17世紀中葉以降20世紀初頭までの二世紀半の歴史を、産業革命をはさんで前後三期に区分して」叙述は進む。各部の冒頭にレジュメを配し、それぞれ第1章では「従来の歴史研究において、社会を構成する重要な分野とされてきた経済史や政治史」の概観が与えられる。筆者のような門外漢にも、断片的ながら馴染の事象や人名が並び、各時代の整理を容易にさせてくれる仕組みになっている。そのあとに各2章を設け、本書の副題となっている社会生活史=消費生活の歴史が詳述される。
 視野は広く、都市における生活環境、信仰、教育、新聞の登場・隆盛に見られるジャーナリズム、交通機関、食、レジャーなど日常生活の全領域にわたる。その中から「富める者」と「貧しき者」、さらに産業革命期に確固たる地位を占めるに至る「勤勉(インダストリー)を自己の徳性の一つ」(148頁)とする、自覚された階級としての「ミドル・クラス」の姿を摘出し、社会階層の形成・変容の推移を浮かび上がらせる。この時、各時代各階層に関わる(たとえば家計簿などの)第一級資料を提示し、精緻を極めた比較・分析を加えていくが、その過程は大学での若い学究のエキサイティングな講義を髣髴とさせてくれる。
 現今、総理府の国民意識調査に見えるように、わが国での中流意識をもつもののパーセンテージは高く、また「世紀末」ということだけでの前世紀との比較が各方面で行われている中で、中流「意識」と中流「家庭」の存在とは無縁なことを指摘し(150頁)、また「歴史を過度に一般化」することを諫める姿勢(5頁)は一貫していてすがすがしい。
 優に140葉は越すと思われる図版も著者のねらい通りの効果をあげたというべきだろう。ロンドンのヴィクトリア駅に到着した早朝の通勤客(119頁)を見れば誰しも微苦笑を禁じえなかろうし、裁縫女工の職場(129頁)と上流階級の社交界での解散風景(159頁)をみくらべて、階層の違いの一目瞭然なのはさておき、これらを描いた人の目に時計というのがなくてはならない小道具であることに、その時代を感じさせられもする。

辻 静雄(辻調理師専門学校校長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

サントリー文化財団