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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1987年受賞

宮岡 伯人(みやおか おさひと)

『エスキモー ―― 極北の文化誌』を中心として

(岩波書店)

1936年、神戸市生まれ。
京都大学大学院文学研究科修士課程修了。
小樽商科大学商学部教授、東京外国語大学教授などを経て、現在、北海道大学文学部教授。
著書:『エスキモーの言語と文化』(弘文堂)、"Yup'ik Eskimo Grammar"(共著、アラスカ大学)

『エスキモー ―― 極北の文化誌』を中心として

 宮岡伯人氏の『エスキモー』を読み了えるのに何日もかかった。岩波新書の一冊だから、印刷された文字の量からすればそんなに時間がかかりそうな本ではない。しかしお恥ずかしいことに、私の頭はこの小冊子に語られているエスキモー文化、とくにその中心をなしている言語の特性についての説明を理解し、飲みこむだけでも精いっぱいで、休み休みしながら読み進むしかなかった。
 難解な本かといえばそんなことはない。宮岡氏の文章は明晰で平易である。フィールドワークに関わる数々のエピソードや、各章に挿入されている興味ぶかい四つの「説話」など、まさにお話の面白さで読者を大いに楽しませてくれる。
 それにもかかわらず、私が何日もかかってやっと読み了えたのは、この本で坦々と語られているエスキモーの言語および文化の多様な特性が、こちらにいわゆる頭の切り変えを迫る点で無類の力を発揮したからである。
 たとえば日本語で「あの熊」という時の「熊」は、ユッピック・エスキモー語では、話し手からみた熊の場所とそれが動いているかどうかなどの違いによって、用いる指示詞(「あの」に当る)が一様ではなく、26の明確にことなる指示詞で表現しわけられるという。この言語にはさらに、日本語の「こ」と「そ」のそれぞれにほぼ相当する指示詞が2つずつあるので、日本語では「こ・そ・あ」の3種しかない指示詞が、ユッピック語では30種の多さを数えることになる。(139〜140頁)
 こういう言語に関する話を読むと、私は第一には驚異を感じ、第二には頭の枠組の切り変えにせまられるのを感じる。そして何よりもまず、こんな言語を習得し、文法を解明し、頭の中に整然とファイルしている著者の仕事に対して脱帽する。宮岡氏はベセルにあるアラスカ大学の分校で、10年近くエスキモー語を母語とする人たちにエスキモー語の文法や正書法を教えてきたのである。
 いかなる民族にあっても、そのアイデンティティを最も明確に示しうるものは固有の言語である。少数民族の固有言語を圧殺しようとするのが支配者の常道であることは、アイヌの場合を見るだけでも明らかで、宮岡氏がエスキモー自身に対してエスキモー語文法を教えることを通じてやってきたことは、この観点から見るだけでも真に大きな貢献だといわねばなるまい。
 同じ理由からこの本は私たち日本人に対して、日本語ならびに日本文化そのものを相対化し、外から見直すように迫る一つの挑発の書でもあろう。
 北辺の地で多年困難なフィールドワークにうちこんできた著者のような学者にサントリー学芸賞が贈られることは、賞そのものにとっても喜ばしいことだと思う。

大岡 信(詩人)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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