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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1987年受賞

井上 和雄(いのうえ かずお)

『モーツァルト 心の軌跡 ―― 弦楽四重奏が語るその生涯』

(音楽之友社)

1939年生まれ。
神戸大学大学院経済研究科博士課程中退。
大阪府立大学教養部助手、同経済学部講師などを経て、現在、神戸商船大学教授。
著書:『ユーゴスラヴィアの市場社会主義』(大阪府立大学経済研究叢書)

『モーツァルト 心の軌跡 ―― 弦楽四重奏が語るその生涯』

 日本語で書かれたモーツアルトの伝記、評論、研究書の類は数多い。しかしその大部分は翻訳書または外国人のモーツアルト論の翻案にすぎない。本書は、アマチュア音楽家として30年以上にわたってモーツアルトの弦楽四重奏と取り組んできた井上和雄氏が、その体験に照らしながらユニークなモーツアルト論を展開した心暖まる書物である。
 なによりもまず氏の文筆家としての才能には感服させられる。モーツアルトの音楽に独自のあの柔軟さと悲哀を、弦のかすかな動きとアンサンブルの微妙な呼吸に託して描出する文章力もさることながら、モーツアルトの弦楽四重奏の内に聞き取れる人間モーツアルトの心の綾を手に取るように生き生きと再構成して見せる論述の鮮やかさには、文筆家としてのセンスの良さと、社会科学者としての読みの深さが感じられる。
 我が国に洋楽が導入されて以来既に1世紀以上を経過した今日、日本人音楽家の外国コンクールでの受賞等の華やかな活躍とは裏腹に、西洋の音楽文化はまだまだ充分に日本に定着していないと嘆く人も多い。実際、今日の日本の音楽大学の現状や音楽産業の実態を考えるとき、日本の洋楽の根の浅さを嘆かないわけにはいかない。しかし井上氏のモーツアルト音楽への熱い眼差しと、西洋音楽文化受容の底の深さを見るとき、その認識は改められなければならない。井上氏とその仲間たちのモーツアルト理解は、モーツアルトを演奏する多くの音楽大学生は勿論のこと、音楽の専門家を名乗っている人々の理解をも遥かに越えている。それは井上氏が、いわゆる専門馬鹿として近視眼的にモーツアルトを捉えようとするのではなく、一音楽愛好家として、否、一人の愛すべき悩み多い人間として、モーツアルトに深く共感しようとしているからにほかならない。井上氏は自らをアマチュアと謙遜しているが、氏のモーツアルト論のなかには、欧米の主要なモーツアルト論の殆んど全てが参考にされ、巧みに吸収消化されていることを見逃すわけにはいかない。その意味でも本書は決して単なる一音楽愛好家の独白ではない。その計算し尽くされた文章はまさに玄人のものである。
 今、日本の音楽文化に欠けているものは、この視野の広さと、人間的な心の暖かさではないだろうか。音楽の世界でも専門家を自称する人々が横行しすぎている。無類に音楽を愛し、それを日々の糧として生きている本書の著者のようなアマチュアの出る幕が殆んどなくなっている。しかし本書を読んでいると、イギリス人以上に深くシェイクスピアを理解する日本人がいるように、ドイツ人以上にモーツアルトやベートーベンを理解する音楽愛好家が日本にはまだまだ隠れていそうな気がしてならない。そこにこそ日本の音楽文化を育成する豊かな土壌があるのである。
 井上氏とそのグループによる室内楽活動という素晴らしい音楽文化の温床のなかから、更に次の楽しい音楽論が生まれてくることを期待してやまない。

谷村 晃(大阪大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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