選評
思想・歴史 1986年受賞
『共生の作法 ―― 会話としての正義』
(創文社)
1954年、大阪市生まれ。
東京大学法学部卒業。
東京大学法学部・教養学部助手を経て、現在、千葉大学法経学部助教授。ハーバード大学哲学科客員研究員(フルブライト研究員)としてアメリカに滞在中。
井上氏は、その若年にもかかわらず、なかなかに風格のある人物である。文は人なりというビュッフォンの格言は、この若き俊秀についてもいえるのであって、本書にみられるような闊達な境地と緻密な内容とを、井上氏その人が備えている趣きなのである。なぜそういえるのかというと、彼が私の属する大学の助手であったころ、彼と私のあいだに幾度か楽しい会話があり、その過程で、井上氏の人品のただならぬことをつよく印象づけられたのである。
井上氏の世代は俗にポスト・モダンに染め尽されているといわれている。しかしどんな時代のいかなる世代であってもそう単色ではない。井上氏のように、正義論という通時代的なアポリアに正面から格闘することにより、自己の世代の平均値にくくられることなく、歴史の流れから頭ひとつだけ出して世間をひろく眺望できる立場に身をおくような人間もいるのである。本書における井上氏の貢献を一言で表現するなら、モダン・エイジのなかに含まれるプリ・モダンやポスト・モダンの要素を抉り出し、それらをつき合わせることをつうじて、正義論のもつべき多面的な性格を描出したことだといえよう。
本書への授賞は、選考委員すべての積極的な賛同をもってなされた。というのも、ひとつに、正義論をめぐる学説的な錯綜を精密にときほぐしているという意味で、みごとなサーヴェイ・アーティクルになっているからであり、またふたつに、「会話としての正義」という独自の展開が真正のリベラリズムにとって実り多き方向を切り開くものと期待されるからである。
エゴイズムとリベラリズムにまつわる功利、権利、善あるいは契約などの諸問題を批判的に考察しつつ、井上氏は正義という言葉の「語権」を救済しようとした。正義と自由とが内的に連関しているという脈絡のなかで、正義の概念に息吹きが与えられる。その連関を確保するものこそ社交体の概念にほかならない。つまり、「異質な自律的人格の共生」の場において、正義と自由との相互応答としての生きた会話がくりひろげられるということである。
英国流の保守主義に傾斜しつつある私には、井上氏がなぜ「会話としての正義」という考えを押し出したかが、よくわかるような気がする。自由主義と歴史主義が表裏一体をなすことを真正の保守的精神は見逃しにしない。会話は、自由のみにまかされたときには発散して解体するであろうし、歴史のみにゆだねられたときには窒息して死滅するであろう。自由(創造)と歴史(伝統)とのあいだで平衡をとる営みのなかで、「生の宴」としての会話が花ひらくのである。会話の問題を取り上げたからには、いずれ、その宴に不可欠の料理である諧謔のことにもふれられるであろう。そのとき井上氏の文体もいっそういきいきとしてくるものと予想されるのである。
西部 邁(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)