選評
芸術・文学 1986年受賞
『つくられた桂離宮神話』を中心として
(弘文堂)
1955年、京都府生まれ。
京都大学大学院工学研究科修士課程修了。
京都大学人文科学研究所助手。
著書:『霊柩車の誕生』(朝日新聞社)
井上さんの『つくられた桂離宮神話』をめぐって、サントリー学芸賞の芸術・文学部門選考委員会は、かつてないほどの激論が闘わされた。
この本の推薦者はいう。「桂離宮は一般に信じられているような日本建築美の枠などではなく、むしろ芝居の書割建築のように表現性の多いものであることはすでに建築家のあいだでは知られていることではあるが、それを一般的に解説ししかもその桂離宮を主人公にして、小説のごとく面白く読ませる点は出色である。とくに最後のブルーノ・タウトと川端康成と著者自身とをダブらせるあたりに技巧の極をみる」と。
これにたいして、多くの疑問が提出された。その最大のものは、この才気溢れる(この点については誰しも異論がない)文体を成立させているレトリックヘの不信である。「つごうのいい資料だけを並べている」「自分の意見や感情が述べられていない」「批評の形式としてはフェアではない」「将来性についてはどうか」「いかがわしさを感じる」等々の意見である。
いかがわしさ――たまたま一人の委員の発言にあったこの言葉をめぐって、その後、討論は別な展開を見せた。「いかがわしさといわれると、建築というものはもともといかがわしいものである。五重の塔で五階建になっているものはめったにない。みな平屋である。法隆寺の金堂なども二階に見せかけているにすぎない。神社建築などは中へも入れないミニチュアばかりだ。素朴さの代表のようにいわれる伊勢神宮本殿の高欄なんかは垣や樹木に隠れて見えないからいいようなものの、中身はパチンコ屋まがいのギンギラギンの装飾である」「それをいうと、芝居小屋や遊里はいかがわしさそのものである」云々などという見解が披瀝されたりして、選考委員会会場はさながら建築をめぐる小シンポジウムのような観を呈した。
なかに、ある一人の委員が、しみじみと次のように語った言葉が印象的だった。「建築界はポストモダンだとかいって大騒ぎだけど、それらの建物でいいとおもったのは一つもない。そういう運動のリーダーたちの何人かを私はよく知っているけれど、彼らの使う文学や哲学用語入りの文章で心をうたれたものは一つもない。建築家の友人は多いけれど、彼らに家の設計を頼む気にはなれない。家を建てるなら大工さんに頼むのがいちばんいいとおもっている」
このような意見が、当代をになう文学者からもやはり提起される、ということに現代建築家は反省を要するであろう。
ともあれ、サントリー学芸賞の芸術・文学部門の選考委員会にときならぬ現代建築論争を起させたという点で、本書は著者の前著の『霊枢車の誕生』と併せて同賞受賞の価値ありと認められたと私はおもっている。
上田 篤(大阪大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)