選評
芸術・文学 1986年受賞
『宗教の深層 ―― 聖なるものへの衝動』
(人文書院)
1939年、京都府生まれ。
京都大学教育学部卒業。
NHKに入社後、大阪中央放送局、京都放送局を経て、現在、社会教養部チーフ・デイレクター。
著書:『中世の真実』(人文書院)、『宗教が甦るとき』(毎日新聞社)
ふと題名に心惹かれて買い求めて、読み出すとそのまま釣りこまれて、一気に読み終ってしまった。未知・未見の著者の本として、近ごろ珍しい経験であった。
第一、着眼が見事で、テーマが根源的で大きい。副題が示すように、日本人における「聖なる衝動」のありかをつきとめ、その宗教意識の実態を跡づけようという野心的な試みである。しかも、この著者は、大仰な理論的な枠組やこちたき定義にこだわることをせず、実地に即し、経験を踏まえた所から歩き出す。もっとも序章の「わが南島体験」には、いく分当世のテレビ番組めいた軽さ、調子のよさが匂わぬではなかったが、導入部としての魅力は十分具わっているのだし、第1章の「『たましい』の学の現在」で、折口信夫と柳田國男の「たましい」論のくい違いを論じ出すあたりから、著者の筆致は、熱っぽい説得力をはらんできて、もう眼が離せなくなる。そして当方も薄々は感づいていた、折口、柳田両巨人学者における微妙、しかしきわめて重大な対立点がくっきりと浮び上るのだ。しかも、そこからさらに一歩踏みこんで、これら両者の精神的源泉ともいうべき本居宣長における宗教意識の根を洗い出そうとするのだから、この著者の追求力、分析力は、並々ならぬ鋭さ、執拗さと讃えてよい。
「宣長の世界は、神仏なき救済論の原型である」と言い、その源を法然の専修念仏のうちに探って、その「世俗化形態」が宣長の「人情論」というテーゼは、中々説得力に富んでいる。「法然の『煩悩』から宣長の『人情』への歩みは、超越的救済論から、内在的人生論への移りかわり」と言い切るのは、大胆すぎる断定ともひびくけれども、宣長の「人情論」のいわば聖と俗とのはざまにたゆとう微妙さの定義、位置づけとしては、新鮮な着想といえるだろう。
もっとも、その後につづく夏目漱石と清沢満之の章は、その立論も分析ぶりも、さほどの独自性は認められない。納得のゆく趣旨ながら、もう一段の工夫がほしかったという気がする。
しかし、日本人の宗教意識という問題は、幾多の謎をはらんだ大テーマであるのに、不思議なほど、まともに論ぜられることがない。わが国が、どうやら世界に先がけてかなり徹底的な「世俗化」をやってのけた例外的な存在であることは、ほぼ明白であるが、そこへ至るプロセス、また一体何故江戸期にあれほどの「世俗化」が成しとげられたのかという大きな謎は、一向に解かれていない。もちろん、仏教史、各宗派の研究、また神道史など、おびただしい数の専門書はすでに刊行されてきたのだが、あまりにセクト的、自派中心的なものが多く、広い歴史、また文化のパースペクティブの中で、日本人の宗教意識のルーツ、また本質を見きわめようという試みは、残念ながら、いまだに少なすぎる。そうした未開拓の原野にあえて大胆な鍬入れを試みたこの著者の着眼と努力を高く評価したいのである。
佐伯 彰一(中央大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)