選評
思想・歴史 1985年受賞
『隠された思考 ―― 市場経済のメタフィジックス』
(筑摩書房)
1949年、奈良県生まれ。
東京大学大学院修士課程修了(経済学研究科)。
広島修道大学商学部講師を経て、現在、滋賀大学経済学部助教授。
具体的な現実の状況について考えぬいた成果であり、したがって現実を思索的に処理するにあたって充分な有効性を持ち、そのことを通して一定の社会的な指導力を発揮するような観念形態を「思想」と呼ぶとすれば、世界的に見て、偉大な学問的理論はしばしば同時に思想でもあった。哲学や社会科学は言うまでもなく、自然科学でさえもその例外ではなかったということは、いわゆるパラダイムと呼ばれるものの多くが自然科学の分野で作られたことからも明らかである。ところがわが国では学者の病的な潔癖から、理論が思想となることに強い拒否反応が働いており、思想の欠如がいわばわが国の学界に特徴的な現象でさえある。したがってわが国で思想と呼ばれるものは、ほとんどが外国で生まれ育ったものの受け売りであった。
しかしそういう状態(思想の閉塞状況)は最近になって次第に打開されつつあり、健全で真摯な思想性を備えた理論が、なかんずく若い世代を中心にして、活発に生産されるようになった。その傾向はとくに経済学の畑で顕著であるように見うけられる。素人の判断で恐縮であるが、経済学の領域では近代経済学とマルクス経済学との機械的な区別も無効となり、その学問自体が純粋な法則科学としてもプラクティカルな政策理論としても現実に対応しきれず、むしろ思想としていっそう生産的に活動し、そこに新生面を見いだそうとしているかにみえる。(妄言多謝)
少なくとも佐伯氏の著書はそういう意味での思想的な労作として高く評価される。この労作は経済学に基軸をとりながら、近代科学そのものの基盤にひそみ暗黙のうちにこれを決定した思想的前提(「隠された思考」)のダイコトミカルな本質を剔抉し、客観的妥当性をあたかも自明のものであるかの如くに主張してきた近代科学が科学の名において否定し去ったかのように妄信していたにもかかわらず、実は当の科学の根にほかならなかった形而上学を明らかにすることによって、新しい文明的視座を提供しようとする。換言すれば、本書は固有の経済現象である市場の機能と構造とを記号論と解釈学の手法を用いて分析しつつ、これまでの経済学を支えてきた近代的思考(「理性主義」、「実証主義」)を徹底的に批判することによって、伝統にとらわれない眼で現代文明論を展開しようとする犀利で斬新な試みであり、その理論を進めるにあたって多くの哲学理論から補強を得ている。
高い批判精神と博い読書に支えられた傑作であり、既成のアカデミズムに対する強いインパクトでもある本書が提供する意味は深いと言えよう。著者の今後の研鑚と活躍を祈ってやまない。
中埜 肇(筑波大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)