選評
芸術・文学 1985年受賞
『日本現代演劇史 明治・大正篇』
(白水社)
1941年、大阪市生まれ。
早稲田大学文学部卒業。
『演劇界』編集部を経て、現在、演劇評論家。
著書:『正統なる頽廃』(河出書房新社)、『同時代演劇と劇作家たち』(劇書房)など。
今は「通史」の受難時代である。さまざまな分野で、通史を書く人の姿は寥々たる有様になってしまった。学者・研究者の多くは、自分の「専門領域」の掘り下げに余念がない。20年近い昔、「専門馬鹿」を罵倒した大学生や大学院生たちの中から、続々と「専門利巧」が生まれているのが、まあ今日の現状というようなものではなかろうか。「専門馬鹿」を罵倒していたころには、うら若き魂はまだ「専門」のほんとうの恐ろしさも、また魅力も、双つながら味わうことさえ知らなかったのだ。
しかし昨今ようやく新しい段階が始まったように見える。演劇史における大笹吉雄氏の『日本現代演劇史 明治・大正篇』はまさにその重要な指標である。また、たとえば日本文学史の分野でも、小西甚一氏による大作の『日本文藝史』が刊行されはじめている。
演劇史の分野では、事情はきわめて錯綜している。過去の名優や名演出家が、いったいどんな理由と資格において「名」のつく人々であったのか、実の所をいえば誰にも断定的評価など下せるはずはないのである。同時代の評判記の類が、どれほど信頼できる演劇時評であったのかさえ、ほんとうは分りはしないのだ。それでも名優は名優、名演出家は名演出家として、一世を風靡し、確固たる存在を歴史に刻んだ。そこに演劇というもののふしぎに魔的な魅力もあった。演劇とはある意味でいえば、舞台という板の上にその時だけ出現する、身もふるえ心もとろけるような実在する幻なのだ。
そういうものの「通史」を書くということは、一面から言えば無謀だろう。だが、それだけに挑み甲斐のある仕事である。心得としてはたぶん次の点が重要だろう。すなわち、演劇通史はともかく面白くなければならない。何といってもこれは、板の上にたしかに実在する魂とろかす幻なのだから。けれどもまた、同じ理由によって、著者は自ら面白がりすぎてもいけない。何しろ相手は、いったん過ぎてしまえば、記憶の中にしか残らない幻なのだから。
つまり演劇通史の著者は、演劇へのぞっこんべた惚れの心情をもって、常にそれから一定の距離をへだてて立っていなければならない。一枚のぼろぼろのチラシをも、フェティッシュの如く溺愛しつつ、それの価値を冷静に評価できなければならない。その上で、時代状況と演劇との関わりや、お定まりの人間模様の数々を手際よく叙述してくれねばならない。
大笹吉雄氏はそういう貴重な数少ない通史作者の資格を十分に持っている人である。『日本現代演劇史 明治・大正篇』は、そのあとに未刊の昭和篇をも従えて、私たちに明治演劇改良運動以来の日本演劇の歴史を、歌舞伎・新派・新国劇・新劇といった「総体」において示してくれる。筆致は平静に、思いは深く。著者が長い時間かけて育ててきた本を読む喜びが与えられるのは、「通史」の功徳の一つだが、何といったって、今まで知らなかった演劇史上の大小のエピソードを、歴史の実体として読むことができるだけでも、この大作の労をたたえる意味は十分にあろうというものである。
大岡 信(詩人)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)