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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1984年受賞

中沢 新一(なかざわ しんいち)

『チベットのモーツァルト』

(せりか書房)

1950年、山梨県生まれ。
東京大学大学院修士課程修了(宗教学専攻)。
ネパールにてチベット密教の実践的研究に携わる。現在、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手。

『チベットのモーツァルト』

 確かに私は、本書を強く推した一人なのだから、選評を書く義務はあるであろう、だが、いざ書くとなると少々困った状態になる。というのは「ではお前はこの本を完全に理解・納得したのか」と問われれば「そうは言えない」と言わざるを得ないが、その逆を問われても答えは同じになるという状態だからである。
 簡単にいえば「理解したのか、しないのか、それさえ、さだかではない異質の世界」に遭遇したのだが、その世界に私を巻き込んでしまった著者の腕というより筆に、私が惚れ込んだと言うことである。惚れ込んだものには批評はできない。
 確かに本書も「ポスト構造主義的な」――あくまでも「的な」であろうが―著作であろう。といえば同じような著作は他にもあり、そのうち――幾冊かは目を通したが、本書はそれらとは異質のものをもっている。簡単にいえば、巧みに情報を整理して読者に提供しているのでなく、ある世界に読者をまき込んでしまう力をもっているということである。
 もっとも「孤独な鳥の条件」の註(17)を読み「…万が一、(カスタネダの)ドン・ファン・シリーズがフィールド・データにもとづかない創作の部分が多いとしても、かえってそのことで舌を巻く人の方が多いではないか」という文章に接したとき、同じ批評が著者自身にも当てはまるのかどうか、それを見分ける能力は私には全くないな、と思った。だがそのとき私は「舌を巻いて」やはり推薦するであろう。
 いやそういう危倶を感じさせたのは次の文章である。「『知慧の風』と『行為の風』の差異は、ちょうど、ヘブライ語で最初に書き著された聖書と、ギリシァ語に訳された聖書との差異のようなものだ、初期の聖書にはひとつも句読点が打たれなかった……」という文章である。これは「ギリシァ語に訳された聖書の後期の小文字写本」とすべきであろう。
 というのは『シナイ写本』のようなUncial(大文字写本)は句読点がないだけでなく、単語と単語の間も切り離していない。さらに気息音符号もアクセントもついていない。この点ヘブライ語聖書は、『死海写本』でも単語と単語の間は切り離してある。確かに、ユダヤ人の聖書の読み方が「『気息のテクスト』として、軟かく揺れ動く身体の運動性に接合していた」こと、否、「いた」でなく、現に今でもそうであることは、嘆きの壁の前で聖書を読むときの彼らの「軟かく揺れ動く身体の運動性」を見れば、著者の指摘は納得できる。だが、「『意味の構造』にしたがって堅固な構造化」がほどこされたのが「翻訳聖書から」か否かは、Uncialを見れば少々問題を感ずる。著者の指摘を、その通りと感じうるのは、エラスムスが用いたバーゼル図書館本、12世紀のビザンティウム本文のような、句読点、気息符号、アクセントがつき「堅固な構造化」がほどこされたころからではないであろうか。それがいつころはじまったか、私には明らかでないが。
 この種の指摘が、もっと重要な点で出てくるかも知れない。だがそれを指摘する能力は私にはないし、以上の指摘も、枝葉末節のことで本書の価値には関係ないことだという気がする。そういう気にさせる独特の魅力をこの本は持っている。それは十分に「賞」に価いすることであろう。

山本 七平(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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