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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1984年受賞

天野 郁夫(あまの いくお)

『試験の社会史 ―― 近代日本の試験・教育・社会』

(東京大学出版会)

1936年、神奈川県生まれ。
東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。
国立教育研究所研究員、名古屋大学教育学部助教授を経て、現在、東京大学教育学部教授。
著書:『「学習社会」への挑戦』(日本経済新聞社)など。

『試験の社会史 ―― 近代日本の試験・教育・社会』

 私たちの大きな関心事のひとつに、子弟の教育または我が国の教育制度にかかわるものがある。日々の新聞は、小中学校の塾における勉学によって生じるひずみや弊害、校内暴力の問題、また総理大臣直属の私的諮問機関としての臨時教育審議会に対する、さらにはその存在そのものに対する賛否両論も含め、さまざまな意見を報じている。戦後教育全体の見直しがいわれ、学校教育はかくあるべしの論議が絶えないが、それは決して心情的、懐古的なものにとどまってはならず、予測される多くの困難や混乱、障害を最大限に見つめ、それに対応する措置を見極める必要があろう。そうした中にあってともすれば、大学入学のための試験は悪の根源のようにさえもいわれることがあり、共通一次試験が実施されてわずかな年月しか経ていない今、その見直しが云々されてもいる。
 こうした諸々の問題は、なまなかの手直しで解決される性質のものではなく、我が国の教育制度全般との関連で考えられなければならないことであることは言を俟たないし、そのためには客観材料がより豊富なことが望ましい。ここに本学芸賞の対象となった天野郁夫氏の『試験の社会史』の存在理由があろう。
 本書で対象となる「試験」には、徒弟制度の中で親方となるために行なわれていた実技試験やまた西欧で広く行われている口頭による諮問などは(通過儀礼的なものととらえられているためか)含まれず、学校教育の場での「書かれた」試験、また専門的職業(医師、弁護士、教師など)のための資格試験が詳述されている。明治10年から明治40年に至る、我が国における教育と試験のかかわりを考察する間に、試験の源を遠く中国の科挙の制つまり官吏登用試験に見、西欧での近代産業社会における、進歩の理念に基く競争による向上心を刺激するところの試験への転換の様を考察することも忘れてはいない。また我が国の官僚任用制度と学歴主義との関連にも目は配られている。
 近代社会の仲間入りをする努力(それも急を要するものとして)のひとつとして、西欧の制度、技術、事物を移植するための「日本のなかの西洋」でありつづけた大学の設立に至った経緯が語られる。「競争がきびしく制限されていた維新以前の強固な身分制度」のなごりがある中で「競争原理」に基く試験を含む近代学校制度の根幹を策定した大木喬任初代文部卿の業績をはじめて知る読者は少なくないのではなかろうか。また一般大衆のための小学校の増加、中等教育機関の充実がすすむにつれ、「一階の小、中学校と二階の大学とが別の世界である、二階建ての家にたとえることのできる明治の教育制度の中で、一階から二階に行く『階段』の昇り口でわが国の試験地獄が展開されてきた」ことを教えられ、入試問題の根の深さを知る。大木文部卿がつくった「学制」の「試験関係の規定には、試験によせられるさまざまな期待のすべてをみることのできる」項目、つまり教育の質の向上、教育の平準化、子供への教育への動機づけ、優秀な人材の選抜と育成がすでにあったが、一方では小学校レベルではあるが、明治20年に「昔も今も言われるところが変わっていないのにおどろかされる」試験の弊害も4項目指摘されていた事実を書きとどめている。
 二十余年にわたる研究の成果として、豊富な実例をひきながら、堅実な手法で「試験」制度を検証する著者に敬意を表し、本書が将来の我が国の教育と学校教育制度を考える場合の基礎資料となることを信じている。

辻 静雄(大阪あべの辻調理師専門学校校長)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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