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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1983年受賞

増成 隆士(ますなり たかし)

『思考の死角を視る ―― マグリットのモチーフによる変奏』

(勁草書房)

1942年、青森県八戸市生まれ。
東京大学大学院博士課程修了(美学専攻)。
ミュンヘン大学に留学、東京大学文学部助手を経て、現在、筑波大学助教授(現代語・現代文化学系)。
著書:『理解の理解―ことばの世界―』(開拓社)など。

『思考の死角を視る ―― マグリットのモチーフによる変奏』

 人間の知的進歩が、伝統的な権威と通念に対する懐疑と批判を発条とする、いわゆる「知の組み換え」によって行われるものであるということは、いまさら更めて言うまでもない。しかしまた、このことが一見して自明であるほど容易に行われ得るものではないということも、世界文化の発展経過や私たち自身の知的生活の現実を少しく反省してみれば、明瞭な事実である。というのは、この点に関するかぎり、人間は本質的に怠慢であって、権威と通念の上にあぐらをかいて事足れりとしがちだからである。懐疑と批判による知の組み換えを行うことをもって自己の使命とする哲学者たちでさえ、この面で他のジャンルに対して誇るに足るものを持っているわけではない。ともかく人間の知的営為の中で、権威と通念とは巨大な力をもってあらわに支配権を行使するばかりか、ひそかに潜行して私たちの思考を意識下において方向づけ、あるいは決定してしまっていることが少なくない。こうして人間は通常きまりきった角度からものを眺め、その結果をきまりきった概念で表現するという、いわば知的レディ・メイドの状況の中に安住している。その結果として、人間の思考には死角が生じ、私たちはその死角を除去することはもとより、その存在にさえも気づかないのが常である。そこで知の組み換えにとって必要なのは、知的レディ・メイドに安住する人間の日常性を震憾し、ショック療法によってこの思考の死角を自覚させることである。本書の全体を貫く著者の問題意識はこのように集約されるであろうが、本書の価値と興味とはむしろその療法にある。
 美学を専攻し、現代芸術に精通する著者はこの療法を、主としてベルギーのシュール・レアリスム(というより著者の用語によれば、メタ・レアリスム)の画家であるルネ・マグリットの作品の中に求める。私たちは著者によって呈示されたマグリットの絵を見ると、そこにひそむ深い不気味さに一抹の戦慄を覚えざるを得ないが、それはこの絵が私たちのよりどころとなっている常識の脆さを容赦なくあばいて見せるからであり、逆に言えば、この作品を分析することによって、私たちは否応なしに自分の思考の死角に気づかされるのである。そして著者は非凡の手腕と精緻な手法でこの分析の手続きを見せてくれる。
 しかも本書において著者はそのような思考一般の死角を意識させることを意図するだけではなく、とくに第2部では、現代人の意識の深層にひそむ「私」もしくはセルフ・アイデンティティの問題にも、同じく主としてマグリットの作品の分析を手がかりにして、切れ味鋭く切りこんでゆく。そこで著者の問題意識は一段と深化され、その視線はさらに透徹して人間存在の根柢に及ぼうとする。本書を通して私たちは、芸術作品というものが単なる美的鑑賞の対象ではなくて、もっと深い自己認識のオルガノンであることを教えられる。その点で本書は先駆的な意義を持った力作であり、著者の将来の思想的発展が強く期待される。

中埜 肇(筑波大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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