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サントリー学芸賞

選評

社会・風俗 1983年受賞

船橋 洋一(ふなばし よういち)

『内部(neibu) ―― ある中国報告』

(朝日新聞社)

1944年、中国・北京生まれ。
東京大学教養学部卒業。
朝日新聞社入社。ハーバード大学ニーメンフェロー、朝日新聞北京特派員を経て、現在、朝日新聞東京本社経済部記者。
著書:『サミットの思想』(朝日新聞社)など。

『内部(neibu) ―― ある中国報告』

 これまで読んだ中国報告の多くには、ひとの眼鏡を当てがわれて景色を見るようなもどかしさがあった。近視、遠視、視野狭窄、あるいは、感涙に濡れたり、手垢にまみれたりしたレンズ……いずれもそれなりの中国を覗かせてはくれるが、やはり何か釈然としないのである。しかし船橋氏の報告を読むと、初めて完全に度の合った眼鏡を掛けたように俄然視界が明瞭になり、中国の内部の微細なひだまでがありありと見えてくるではないか。ひとの眼鏡でも、これほど鮮鋭で解像度の高いレンズなら全く文句はない。
 中国人は自然なスナップ写真を嫌がり、しかるべき背景で「アサッテの方に向って構える」ポーズをつけないと気が済まないと、船橋氏も書いているが、本書は日常の些細な事物や人間の表情に焦点を合わせたいきのよいスナップから、その背景の歴史や社会構造や政治状況へとしなやかに視角を広げていく、つまり木を見て森を見るズーム・アウトを機敏に繰返しながら、中国の現実を歪みなく立体的に捉えることに成功している。
 それは当然、中国のポーズとはかなり様相を異にした中国像である。鍵無用の安全神話は公安の監視下にある外国人施設だけのことであり、実はあらゆるものに鍵をかける人間不信の鍵社会であるとか、エリート族はしたたかに特権を乱用して民衆とかけ離れた贅沢に耽っているとか、清く正しく禁欲的な人民国家のイメージを守りたい向きには嬉しくない光景が目白押しなのだ。しかし本書は、嘲笑や憎悪を漲らせた暴露記事とは全く性格が違い、幸福な中国への祈りを込めた暖かい眼眸が一貫して感じられる。船橋氏は文革の深い傷痕を見据えながら、こう書いている。……チャールズ・ディッケンズの「最良の時があった。そして最悪の時があった」風にいうと、文革世代は中国の国民の「最悪の部分であり、最良の部分である」といえるかも知れない。体制の虚偽、虚飾を見破り、農村を知ることで中国を知り、改革の使命を最も深いところで確信している文革世代の友人を思うとき、中国の将来は必ずや「この一代」が切り拓いていくという予感がしてならない。
 中国では「公」に近づくほどサービスが低下し、「私」の領域が広がるほど、それは向上する。また、本来「公」のものであっても、個人的に「私」の関係を作れば「公」に弾きかえされないですむ。中国人は個人的な友人になってしまえば実に親切で礼儀正しい人々だという著者は、まさにそういう誠実な友情を少なからず獲得し得た人に違いない。心を許した友人同士の本音の応酬や質の高い知的な会話が、陰に陽に聴えてくる本書によって、中国人の心の内部にもようやく触れることができたような気がする。
 「あの朝日」の北京支局も、これほどバランスのとれた冷静な特派員を擁するようになったのかと思うと、彼我の世代の交代に、いささかの希望を覚えるのである。

桐島 洋子(随筆家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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