選評
思想・歴史 1982年受賞
『中世イタリア商人の世界 ―― ルネサンス前夜の年代記』
(平凡社)
1935年、東京都生まれ。
東京外国語大学卒業、一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。
東京教育大学文学部助教授を経て、現在、広島大学総合科学部教授。
著書:『イタリア中世都市国家研究』(岩波書店)など。
ルネッサンスについては、さまざまな面から、すでに多くの本が出ている。そのなかには翻訳もあれば日本人が記した研究書もあり、過去において“名著”といわれたものも決して少なくない。また多くの世界歴史全集のような双書では必ずルネッサンスが大きく取りあげられており、われわれは何となく、ルネッサンスとその周辺について相当知識を持っているかのような錯覚を持っている。
従って、たとえば「ルネッサンスの商人たち」といった表題をみても余り新鮮さを感じず、いままで日本で知られなかった新しい分野がその本によって開かれているであろうといった感じは受けない。しかし、本書を開いて読みはじめると、ここにいままで知らなかった一面、というよりむしろその基盤が、一商人の二代にわたる記録を基にして記されており、「なるほどルネッサンスとはそういう時代とこのような商人たちを前提としていたのであったのか」と、はじめて実証的に知らされた思いがする。
それというのも、この『中世イタリア商人の世界』で、著者はあくまでも原資料に基づき、それを翻訳し、編集し、同時に当時のさまざまな政治的・経済的背景を織り込みつつ叙述を進めているので、原資料がその背景のなかで生きているからであろう。そこで、相当に専門的でありながら、しかも、だれが読んでも面白い読みものにもなっている。
さらに私などの、中世イタリア史の門外漢にとって興味深かったのは、経済的に実力のある小先進国と、経済的には非力だが広大な領土と武器を持つ後進国、その間の危険な貸借関係である。いわば、相手の債務不履行に対して、政治的にも軍事的にも対応できない場合、簡単にいえば「商人の世界の論理」が通用しなくなった場合、その小国はどうなるか、またそのなかの個々の商人の運命はどうなるかといった問題である。これは現代の日本が抱えている問題であり、従って本書は、単に中世イタリアヘの知識を提供してくれるだけでなく、現代の日本および世界が抱えている諸問題に対して、多くの示唆を与えてくれる。いわば、いまの世界がミニチュアの形でそのまま見えてくるような思いがするのである。
要約すれば、原資料を駆使し、当時の情勢を適切に織り込むことで、その世界を明らかにしてくれているだけでなく、それが結果として今日にも通ずる問題にさまざまな示唆を与えてくれることが、本書の魅力であり、私のような門外漢まで強く推薦した理由であろう。
山本 七平(評論家)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)