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サントリー学芸賞

選評

芸術・文学 1982年受賞

海老沢 敏(えびさわ びん)

『ルソーと音楽』を中心として

(白水社)

1931年生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。
1962年〜64年フランス政府給費留学生として渡仏。国立音楽大学教授(音楽学専攻)などを経て、現在、国立音楽大学学長。
著書:『モーツァルトと像の軌跡』(音楽之友社)など。

『ルソーと音楽』を中心として

 この本はモーツァルト研究家として広く知られる著者が、一見モーツァルトとは何の関係もなさそうに見えるフランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソーを取りあげ、しかもルソーを音楽家としての側面から捉えようとした意欲的なものである。
 著者は二十数年間にわたってモーツァルトとつき合い、欧米のすぐれたモーツァルト研究を次々と紹介し、さらに著者自身の持つモーツァルト像についても多くの著書を公刊してきた。その点で、著者はモーツァルトという天才音楽家に身も心も奪われた典型的なモーツァルト学者であると思われている。しかし彼は、決してモーツァルトに魂を売った単なるバターくさいモーツァルト学者にとどまるものではない。著者の視座のなかには、自己にとって、またわれわれ日本人にとってモーツァルトとは何か、西洋音楽とは何かという大問題がしっかりと据えられている。この根源的な問いへの手がかりは、著者が学生時代からルソーの思想にふれ、昭和37年、「ルソー生誕、250年祝年」の折に「音楽家としてのジャン=ジャック・ルソー」を発表した時につかまれたものである。大思想家といわれながらもとかく誤解の多いルソー、そして音楽家、ルソーのかくされた一面、この魅力的かつ難渋な思想家を理解し、またルソーと日本人とのかかわり合いを問題にするところから、著者は明治以来の洋楽輸入の歴史のなかで、はじめて深く広い意味で、西洋音楽文化と対決して見せるのである。もちろんその対決はジャーナリスティックに派手なものではない。堅実で緻密な研究と、平明な文章表現によって、淡々とルソーを説き、モーツァルトを語ることを通して、著者はこの対決をいやが上にも鮮やかに浮び上らせて見せる。
 本書は、モーツァルト研究家、海老沢氏の幅広い思想家としての側面と、西洋の音楽文化と深く静かに対決するひとりの日本人音楽学者の個性豊かな音楽への愛情とが、行間にあふれる好著である。同時にそれは、音楽学という日本では比較的新しい学問を人文科学のなかに正しく位置づけ、文化のなかにおける音楽の意味について深く考えさせてくれる書物である。その真摯な音楽と音楽学への愛に敬意を表したい。

谷村 晃(大阪大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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