選評
社会・風俗 1981年受賞
『小泉八雲 ―― 西洋脱出の夢』
(新潮社)
1931年、東京都生まれ。
東京大学大学院比較文学比較文化課程修了。
東京大学教養学部助教授を経て、現在、東京大学教養学部教授。この間、フランス及びイタリア政府給費留学生として留学、パリ第七大学併任教授、ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)客員教授などを歴任。
著書:『夏目漱石』(新潮社)、『東の橘 西のオレンジ』(文藝春秋)など。
平川祐弘氏の、『小泉八雲 西洋脱出の夢』は、学術性と文学性がみごとにマッチした、匂い立つばかりの作品である。「英語で書いた明治の日本文学者」小泉八雲、すなわちラフカディオ・ハーンの全体的な人間像が、彼の作品を通じ彼の両親や妻節子を通じ、そしてまた彼の経歴と体験を通じ、また同時代の作家を通じて、みごとに具体化され、描き出されている。それと同時に、本書によって「貧しいそれでも穏やかな」、明治時代の日本が、くっきりと浮び上ってくる。
本書が、綿密・丹念な学術研究の書であると同時に文学作品にもなっている点が、何よりもまず素晴らしい。たとえば、ポリネシアの神話にもとづいてハーンが仕上げた「泉の乙女」の著者による訳文など、限りなく芳醇かつ流麗であり、思わず息を呑む。美しい文章が、学術書の場合ですらいかに強く読者の心を捉えるものか、そしてそのことが、特に今日の低成長時代にどれほど大切かを、この本は教え示してくれる。「文章は少なくとも三度書き直さなければならない」とするハーンの態度は、明らかに著者自身の態度でもあるだろう。
「両親に見捨てられ……信仰も失い、文無しで渡米し、活字拾いからようやくアメリカの犯罪記事の担当記者」となる、不幸を背負ったハーンは、それ故にこそ家庭を熱愛し、お化けすらヒューマンなタッチで描いてしまう心優しい人であり、日本文化をその内面から共感しつつ書き記していった。このようにハーンを見る著者の眼は、日本文化を見る眼、明治を見る眼と一つになり、ハーンの人と作品、彼の生きた時代像、ハーンの夢見た日本像を克明に重ね合わせながら、ハーンの内心を鮮やかに浮き彫りにすることに成功している。
同じく受賞の対象となった、平川氏のもう一冊の書『東の橘・西のオレンジ』も、氏のきらめく才能により、手堅い比較文学の手法を通して生み出されたものである。紅茶・酒・柑橘類・イソップ物語などをめぐるエッセイ、比較文学の数々は、じつに興味深い。日本文化の心と形を、欧米文化との関わりにおいて捉らえようとする氏の学問が、みずみずしく豊かな感性に支えられて、いま花開き、実を結びつつあるのを、この両書は何よりもよく示している。
木村 尚三郎(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)