選評
社会・風俗 1981年受賞
『国家と情報』
(文藝春秋)
1930年、大連生まれ。
外交官試験合格により、東京大学法学部中退。ケンブリッジ大学経済学部卒業。
外務省に入省し、中近東アフリカ局参事官、防衛庁国際参事官などを経て、現在、駐米日本国大使館公使。
著書:『緊張緩和外交』(国際問題研究所)、『隣の国で考えたこと』(日本経済新聞社)など。
この本は、一種の自叙伝であり、戦後の政治思想史の総括でもある。
敗戦のときに15歳だった少年がいた。戦争中は思想的な書物がなかったので、中国の古典や東西の歴史ばかり読んでいたというのだから、早熟な少年だったのだろう。その少年が大人達の熱っぽい議論に耳を傾けていると、一人の客が「もう一度米英に挑戦できるまで何十年かかるかな」と言い、もう一人が「いや二度とアングロ・サクソンを敵にまわしてはいけない」と反論した。少年は後者の方が正しいと感じ、太平洋戦争に至る政策決定や戦争の遂行に関与した世代の反省としてこれ以上の言葉はあるまいと肝に銘じた。
ところがやがて世を覆ったのは「アングロ・サクソンを敵にまわすな」ではなく「二度と戦うまい」というスローガンで、「それは結構だけど、こっちが何をしなくても向こうから攻めてきたらどうするのです」という素朴な疑問から始まって、あのうんざりするほどの長く不毛な安保防衛論争が続いた。
その間、少年は外交官になり、ケンブリッジに留学して英米民主主義の源流を知り、パリではゴーリズム、ワシントンでは大衆民主主義、ソウルでは朴正煕の維新体制を肌をもって体験し、外務本省と防衛庁の要職を歴任しながら、60年安保と、70年安保、日中ブームを通じて、左翼やいわゆる戦後民主主義の議論に、ことごとに抵抗してきた。当然彼は「保守反動」「タカ派」「はなもちならないエリート」等のカテゴリーに属することになり、彼も非大衆性を自認して、ワカラナイ連中に話しても始まらないと「識者」相手のミニコミに専念していた。しかし最近ようやくマスコミに向き直った彼の論説は、意外なほど平明で説得力がある。
筆者はマスコミや大衆の情緒的な無責任な言動を批判し、日本の政策は日本の願望で一方的に決められるものではなく、客観的国際情勢をあくまでも冷静的確に把握することによっておのずから進路が視えてくるのだと説き、日本をめぐる国々の懐深く入り込んだ分析を進めながら、情勢判断の方法や選択肢の整理法を丁寧に解きあかしてくれる。本の表紙がデルフォイの神託なのも、情報を重視せよという筆者の寓意であろう。
となると、どうしても専門家、エリート偏重にならざるを得ないし、筆者も戦前の英米派がエリートを支柱としていたことを想起しながら、エリート主義の衰退に危倶の念を表明するが、それだけではただの郷愁(ノスタルジア)になってしまう。筆者はそれにかわって、誰も彼もが昔の屈辱も誇りも忘れて中流意識に浸り切っている現代日本の「恩讐の彼方の社会」――一すなわち彼が嫌悪した「戦後民主主義の跳梁」の挙句にでき上った我がままな市民社会の成熟と平衡感覚に、日本の将来の希望を託そうとしている。
かくも柔軟に悪びれずに情勢の変化に対応する筆者の堂々たる「現実主義」こそが、この好著に一貫する主題だといってよいだろう。
桐島 洋子(随筆家)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)