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サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1980年受賞

野口 武彦(のぐち たけひこ)

『江戸の歴史家 ―― 歴史という名の毒』

(筑摩書房)

1937年、東京都生まれ。
東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。
ハーバード大学イェンチン研究所客員研究員、プリンストン大学客員教授を歴任。現在、神戸大学文学部助教授。
著書:『江戸文学の詩と真実』(中央公論社)、『江戸文林切絵図』(冬樹社)など。

『江戸の歴史家 ―― 歴史という名の毒』

 野口武彦は国文学界の俊才である。けれども所謂国文学の枠に収まる秀才ではもともとない。かつて60年安保のときは全学連のリーダーであり、政治的挫折を経験したのちに詩文に志した経緯がある。したがって彼は初め作家志望であり、かなり多くの小説も書いている。しかし、彼の才能は作家に収まるためには、学問的志向と能力がありすぎたというべきか。
 彼は詩文において夷斎石川淳に師事し、学問において中村幸彦氏に師事するという欲深い構図をもっており、それをかなえられた幸運児でもある。またその関係から中村真一郎、丸谷才一といった才幹に兄事する幸運も併せもったのである。
 その彼の研究は、最初、祗園南海、太田南畝といった文人的韜晦と戯作の世界から始まった。60年代後半、高度成長の限界がみえはじめたころ、日本の学界の意識が、新井白石、荻生徂徠、本居宣長といった近世の学匠に翕然と集中していった季節である。
 『江戸文学の詩と真実』(1971年)は、そうした彼の青春の記念碑といえるであろう。韜晦と戯作に惹かれたところに、彼の挫折の屈折をみるべきかもしれない。
 その彼がアメリカ遊学を経て、『谷崎潤一郎編』、J・ネイサン『三島由紀夫』の翻訳と現代文学に橋頭堡を確保したのち、江戸時代の歴史家に回帰したところに、この書物の位置がある。彼は頼山陽の『日本外史』、徳川光圀の『大日本史』に触れることで、江戸時代に熟成し、転回していった歴史意識の流れに着目する。
 江戸時代、林羅山に始まる朱子学的歴史観は、「天理」を体理した支配として「秩序」を永遠のものとする。それが徂徠の古学復興と水戸史学の勃興によって動揺し、さらに宣長の国学が徂徠の復古主義の継承として展開されることで、徳川の支配体制を復古という形で批判する視点を確立する。頼山陽はその世界秩序の可変性を衝く歴史主義として現れる。
 野口武彦は、こうして文学を越えて明治維新を成立させた歴史意識の展開という巨大な海に踏みこむことになった。そして歴史のデーモンを追った挙句、到達したものは政治権力論という新たな地平であった。まさに戯作に隠れた詩文の徒は、正統的な主題を前にしたことになる。作者の歩みを見つめてきた一人として、遥かなる歩みに讃辞を呈したい。

粕谷 一希(評論家)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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