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サントリー文化財団トップ > サントリー学芸賞 > 受賞者一覧・選評 > 阿部 謹也『中世を旅する人びと ―― ヨーロッパ庶民生活点描』

サントリー学芸賞

選評

思想・歴史 1980年受賞

阿部 謹也(あべ きんや)

『中世を旅する人びと ―― ヨーロッパ庶民生活点描』

(平凡社)

1935年、東京都生まれ。
一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。
小樽商科大学教授、東京経済大学教授を経て、現在、一橋大学社会学部教授。
著書:『ハーメルンの笛吹き男』(平凡社)、『刑吏の社会史』(中央公論社)など。

『中世を旅する人びと ―― ヨーロッパ庶民生活点描』

 そのことの当否は別として、歴史はしばしば演劇に比せられ、それを記述する場合に、「役者」や「舞台装置」の重要性についておおいに語られるにもかかわらず、実際に書かれ読まれている歴史書では、役者についても舞台についても具体的なイメージを提供してくれず、索漠たる事実の記録にとどまって、読者をして徒らに砂を噛む思いをさせることが多い。例えば昔の農村における民衆の動きを克明に叙述しながら、しかも歓喜や苦悩に満ちた彼らの心情はおろか、日常生活や服装・住居などについても想像力を掻き立ててくれないから、読者のほうは叙述されている時代と人間に対して情緒的共感を全く抱けないということになる。しかもこのような共感への要求はしばしば学問性という美名のもとに峻拒され黙殺される。
 ところが阿部氏のこの書物は、知性と想像力とのみごとな協力によって、歴史への共感と学問性とを完全に両立させ、読者をしてあたかも自分自身がヨーロッパ中世に現に生きているような思いを抱かせるすばらしい作品である。ここには歴史の脇役や裏方として正史にはほとんど登場しない農民・牧人・肉屋・粉ひき・遍歴職人・乞食などの生きざまや、それを支えている舞台装置としての道路・川・橋・居酒屋・旅篭などに秘められた深い歴史的な意味が、従来の常識の枠を超えた洞察と豊富な文献にもとづく学問的な裏づけによって叙述されているが、その描きかたが実に鮮明かつ具体的であって、これらの民衆の体臭さえもこの書物を通して読者の身近かに感ぜられると言っても、けっして誇張ではない。歴史に対する著者の誠実な愛情と確かな眼と旺盛な研究心とがはじめてこのようなすぐれた叙述を可能ならしめたのであろう。著者が「あとがき」にも記しておられるように、近くヨーロッパ中世の都市生活についてもこのような書物を著されることを強く期待するものである。

中埜 肇(筑波大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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