選評
社会・風俗 1979年受賞
『手の知恵 ―― 秘められた可能性』
(山手書房)
1930年、福井県生まれ。
東京女子大学文学部社会学科卒業。
日本経済新聞社に入社。現在、婦人家庭部記者。
著書:『女のなかの女Ⅰ・Ⅱ』(人文書院)、『主婦が就業する時』(轉轍社)など。
これはすばらしい本である。それを一口に言えば、日常的に何気なく見過され、また軽視されてしまう家事について、そこに働く熟練した手の美しさ、「手の知恵」とされるその動作の合理性と芸術性を、部分部分の一つ一つをゆるがせにしない女性特有の克明な眼でフォローし、解明し、くっきりと浮き彫りして見せた。まさに画期的な書物である。
ちょうど顕微鏡をはじめてのぞき、ミクロの世界に触れてアッと驚くように、著者はこれまで無視されつづけてきた家事の世界にどれほど繊細かつダイナミックな文化が秘められてきたかを視覚にも訴えながら、あくまでも具体的な形でみごとに白日の下にさらしている。
家事は現実との否定なしの触れ合い、人と物との交流を迫る、きわめて健康的な営みである。子どものころをふり返ると、周囲の大人たちのすることは、なんと魅力にみちあふれていたことか。新しい鋏を入れる時の自信ありげな態度、黙々として野菜を刻む手元などは、大人へのあこがれをかきたてるに充分なものがあった。近ごろのような家庭の具体的な仕事の軽視は、女性が長い間手塩にかけて育て、伝えてきた文化への軽視、つまりは形を変えた女性蔑視になりはしないか。このように述べつつ、家事における見る訓練、習熟の値打ち、能動的な方向づけ、環境との対話を説いた冒頭論文は、それ自体堂々たる文明論である。
そして、いまなお「混ぜる」「切る」「刻む」「縫う」「絎ける」「結ぶ」「拭く」など、衣食住の習熟した動作35の一つ一つに抜群の観察眼を働かせ、熟練の素晴らしさとその秘密を解きあかしてくれる。包丁や箸につけられた豆ランプの光の線が手の動きを視覚的に鮮やかに表現する写真の数々も、すぐれたアイデアである。 本書は価値ある能動的な生き方とは何かを発見し、教えてくれると同時に生活の充実を求める80年代に向っての高らかな人間学宣言といえよう。
木村 尚三郎(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)