サントリー文化財団トップ > 40周年記念事業 > フォーラム「文化がひらく地域の未来」レポート(第2部 パネルディスカッション)
私は、サントリー地域文化賞を30年余り担当し、地域文化を見るために、全国各地、200か所余りを訪れてまいりました。その中で実感したのは、日本の地域文化の多彩さと豊かさです。
伝統的な郷土芸能の団体は、なんと約30万。合唱団の数は数万あり、世界的にも例を見ないほどの数だそうです。富山県南砺市には、世界各地の音楽を演奏する市民楽団がいくつもあります。戦後、高知で始まった「よさこい祭り」は、今や全国に広がっていて、よさこい系の踊りを楽しんでいる人の数は、数十万人にのぼると私は考えています。
これらの地域文化活動の担い手は、地域で暮らす普通の人々。いわゆるアマチュアです。そのレベルも高くて、世界のコンクールに入賞する合唱団や劇団もたくさんあります。ある意味で、日本はアマチュア文化大国ではないかと思っています。
今日は、全国の地域文化活動の現場で活躍している方々にお集まりいただきました。
それでは、まず、お一人ずつ、自己紹介をお願いいたします。
私は岩手県の出身で、生まれ故郷の郷土芸能、鹿踊を継承しています。私にとって、郷土芸能をするということは特別なことではなく、むしろふるさとを嫌だなと思った時期もあり、高校卒業後、東京に出ました。その後、現在の勤め先である「全日本郷土芸能協会」に出会い、日本にはこんなにもたくさんの郷土芸能があるのだということを知り、感動したのです。そして、郷土芸能の魅力を発信する仕事をしているときに、東日本大震災が発生し、私たちのふるさとが大きな被害を受けました。
そのときはじめて、自分のふるさとを見つめなおしたいと思いました。また、郷土芸能と人々のつながりを、内と外の視線から捉えたいと考え、「東京鹿踊」という活動を立ち上げました。さらに、文化を通じて、東北に暮らす人々の未来への思いをつなぎたいと考え、「縦糸横糸合同会社」というものも始めました。
高知市から参りました。高知の「よさこい祭り」は、戦後の不景気を吹き飛ばし、市民を元気づけたいという考えから始まった祭りです。今年で67回目を迎えます。毎年8月の4日間、200チーム、約1万8千人の踊り子が参加します。手に鳴子を持ち前進して踊る、「よさこい鳴子踊り」の曲の一節を使わないといけないという決まり以外は、踊りも音楽も衣装も自由で、個性豊かな踊りが繰り広げられます。
その中で、第1回から参加しているのは3チームだけなのですが、その一つが、私が市役所に入庁した時から参加している「高知市役所踊り子隊」です。このチームは、「正調よさこい鳴子踊り」という踊りをずっと踊り続けています。私は今では指導役などを務める立場になり、年間を通じて県の内外で踊りを披露したり、人々に踊りを指導する「正調よさこい鳴子踊り普及振興会」の活動も行っています。
また、市の職員としては、全国のよさこい人が集う「よさこい全国大会」と、よさこい祭りをきっかけとした高知への移住を後押しする「よさこい移住プロジェクト」の立ち上げに関わりました。この事業は、今も継続されています。
30年くらい前に沖縄民謡に魅了されてしまい、沖縄をもっと知りたいと思うようになりました。恥ずかしながら、それまであまりよく知らなかった沖縄戦のことを学んで衝撃を受け、自分にできることは何だろうと考えて、「島唄」という曲をつくりました。当時、ヒット曲にもなりました。
そのあと、沖縄民謡では非常に重要な位置をしめる三線(さんしん)という楽器の棹の部分に使われる琉球黒檀、沖縄ではくるちと呼ばれている樹の多くが沖縄戦で焼失して、今では木材を輸入に頼っていることを知ったのです。沖縄の魂でもある民謡、それに欠かすことのできない三線を沖縄の樹でつくれるように、植樹をしようと考えました。いろいろな方が力と知恵を貸してくださり、「くるちの杜100年プロジェクトin読谷」をスタートさせ、今も続けております。
フランス西部、ブルターニュ州の出身で、20年前から富山県南砺市の小さな町に住んでおります。福野文化創造センターと「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」の総合プロデューサーを務めています。
「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」というのは、世界の今の音楽、ワールドミュージックの祭典で、音楽を通じて世界と交流し、地域を活性化しようと、今から30年前にスタートしました。8月末の3日間、1万人くらいの観客を集め、コンサートやワークショップ、街なかのパレードなどが繰り広げられます。沖縄や東京でもコンサートを行ったり、スキヤキでつくった音楽をアフリカや中南米で演奏したりして、南砺市発信の音楽を広げていく試みも行っています。
スキヤキの特徴のひとつは、市民参加型ということです。すべての企画と運営が市民のボランティア・スタッフによっておこなわれています。集客やフェスティバルの成功よりも大事なのは、ゼロから市民と一緒につくっていくプロセスだと考えています。
山岡さんにお伺いしたいのですが、山岡さんにとって、「よさこい祭り」の魅力とはなんですか?
私が初めて「よさこい祭り」に参加したのは、小学校2年生のときでした。指導には高知市の職員さんが来て下っていました。私が市役所の踊り子隊に入ったときに、その職員さんがまだいらっしゃって、すごく嬉しかったことを覚えています。私が小さい頃は、ほとんどの人が正調を踊っていて、小学校の運動会でも踊っていました。でも、今では正調を踊れる人が減っています。今度は私が正調を守り、伝えていきたいと考えています。
私の夫は、よさこいの楽曲をつくっている音楽家です。二人の娘たちは、ゼロ歳児から「正調よさこい鳴子踊り」を踊っています。そういう家族ですので、「よさこいファースト」という習慣が染みついています。今は東京にいる娘たちも、「よさこい祭り」には帰ってきます。よさこいは、帰ってくることのできる心のふるさとだと思っています。
夫は高知以外のよさこいチームの楽曲もつくっていますし、私は「よさこい全国大会」の立ち上げに関わった関係で全国にネットワークがありますので、家族4人で、よその地域の祭りに参加したりもしています。よさこいを通じた家族の絆も実感している次第です。
一方で、高知市の職員として、お仕事でもよさこいに関わった経験をお持ちですが、文化を通じた地域振興に、どのような可能性や期待を感じていらっしゃいますか?
1999年に「よさこい全国大会」が始まったのですが、近年は、県外の踊り子さんの数が非常に多くなっています。この20年ほど、踊り子さんの参加数はあまり変わっていないのですが、実は、高知県の人口減少の影響などで、県内の踊り子さんが減ってきているのです。ですから、県外から参加している方が、この祭りの活気を支えてくれているという一面もあります。そういった方は、本場高知のよさこい祭りで踊りたいという思いから、個人で県内のチームに参加したり、県外のチームが参加したりということなのですが、踊りを通じて高知の魅力に触れ、移住を希望される方もいらっしゃいます。そういう方は若い方が多いので、人口減にほんの少しでも歯止めがかかればと思っています。
「よさこい祭り」は、市民を元気づけるという目的で始まった祭りで、観光に活かすということはあまり考えておらず、高知の人間はPRも上手ではなかったのですが、札幌で「YOSAKOIソーラン祭り」が始まり、その後、全国に広がっていく中で、高知が本場として注目されているなと感じています。そういう地域との交流、ネットワークが広がっているのは、嬉しいことです。
ほかの皆さんのところでも、地域内外のネットワークが広がっていると思うのですが、いかがですか?
岩手県は郷土芸能の宝庫といわれているのですが、郷土芸能は古臭い、面白くないというレッテルを貼っている人も少なくありません。その中で、東日本大震災を契機として、外国人が郷土芸能に興味を持ちだしたのです。外国人に、郷土芸能を見せようという活動が、東北でも数多くみられるようになりました。今までまったく接点のなかった外国の方が興味を示し始めたということで、地元でも新しく活動に参加する人たちが増え始めました。そして、改めて郷土芸能を見直し、どうして自分たちの地域にはこうした郷土芸能が残っているのだろうということを調べ、外国から来た人たちに体験してもらい、伝えようとしています。
私はそうした活動のお手伝いを各地でしています。また、海外にも直接、郷土芸能の魅力を発信するという活動もしています。外の人たちに自分たちの文化の魅力を知ってもらうことによって、自分たちの文化やふるさとに対して、自信や誇りを感じられるようになると感じています。
くるちの植樹、最初は、プロジェクトというよりも、自分一人ででもやろうと思っていたのです。ただ、実現するまでに100年以上かかる。それでこれは、プロジェクトいう形にしないと難しいな、と。僕が言い出しっぺという形で活動を進めていくうちに、参加してくれる人の渦がどんどん大きくなっていきました。村の全面協力を得ることができ、最初は読谷村で始めた活動なのですが、現在では宮古島、南大東島、久米島、徳之島でも植樹を行っています。「くるちの島プロジェクト」という兄弟プロジェクトがだんだん広がっているところです。
スキヤキが始まったころ、ワールドミュージックというイベントは、日本国内では仲間がたいへん少なかったのです。世界的に有名なアーティストを招聘しても、富山で2~3回公演をするだけなので、とてももったいないと考えていました。長年、そちらでもコンサートをしませんかと、いろいろなところに声をかけたのですが、なかなか実現しませんでした。それで、自分たちの力でまずスキヤキ・トーキョーを実現しました。東京で成功させることで、ほかの地域にも広がりました。そのおかげで、今では招聘したアーティストが2~3週間のツアーを組めるようになり、呼べるアーティストのレベルが上がり、スキヤキの集客や評価のUPにもつながりました。
もうひとつは、2010年から行っている、レジデンスというプログラムです。南砺市でアーティストたちがゼロからパフォーマンスもつくり、出来上がったものを海外で紹介するプロジェクトです。ニューヨークのリンカーンセンターやメキシコの国立劇場でもチケットがソルド・アウトしました。私たちの町で創られた音楽が世界に発信されているのです。
小岩さんも、小学校のころから「鹿踊」をされているのですが、最初、小学校の授業で習い始めたときは、嫌でしょうがなかったそうですね。それが今では、誇らかに〝鹿踊継承者〟と名乗っていらっしゃるのですが、どういうきっかけや経緯があったのでしょうか。
最初にも言いましたように、私は以前、自分のふるさとや訛りに自信が持てない、恥ずかしいという思いでいました。小学校の高学年になると、「鹿踊」をやんなきゃいけない。そのころ、私は太っていたし、運動も嫌いですごく嫌だったんです。でも、やらなきゃいけないという責任感もありましたし、見様見真似でがむしゃらにやっていました。そうすると、一生懸命な子だと、踊りが上手いと褒められたのです。そのときに褒められた一言がきっかけで、こうして40歳を過ぎても「鹿踊」をやることになったのです。
一方で、「鹿踊」や自分のふるさとに対して、誇りや愛着を感じるようになったのは、ようやく最近のことです。なぜそういう風にかわっていったのかと考えてみますと、まず、一度、地域の外に出たことがあります。外の世界の人たちに出会って、自分自身を紹介しないといけなくなったときに、改めて自分のふるさとやずっとやってきた郷土芸能を考え直すことになったのです。もうひとつは、全国に仲間ができたことです。彼らと思いを共有できたことで、自分自身のふるさとや芸能に対する誇りや愛着を一層自覚できるようになりました。
さらに、郷土芸能というのは単なる歌や踊りではないのだと気付いたきっかけは、東日本大震災でした。震災で多くの方が亡くなり、モノが失われていった。それでも、失われた道具類も多くの人たちの協力によってつくりなおされ、どんどんどんどん郷土芸能が復活しました。郷土芸能というのは、その地域に暮らす人たちにとって、それほど大事なものだと改めて感じたのです。
小岩さんは、ふるさとが大きな災害に見舞われたときに、芸能に何を期待して新たな活動を始められたのでしょうか。
私たちがやっている「鹿踊」というのは、亡くなった人を供養するための踊りなのです。それまでは、私は「鹿踊」をパフォーマンスと捉えていて、舞台でかっこよくみせたいという思いが強かったのですが、震災の年のお盆に「鹿踊」をやったときには、その年に亡くなった人の死を悼み、弔うという、本来の役割を実感しました。また、震災以来初めて、お年寄りも子どもも一緒に同じ踊りを踊る。みんなでご飯を食べたり、自粛気味ではありましたがお酒を飲む。芸能というのは、踊っている人たちだけではなくて、それを支える人たちや観るひとたちが、ある場所に集い、関わりあい、思いをひとつにつなぐことができるものなのだと感じました。コミュニティの核になりえる。この芸能の本質をもっと多くの人に知ってもらいたいという思いから、活動を始めました。
山岡さんと小岩さんのお話を伺っていて感じるのは、地域文化の持つ力です。家族や仲間、コミュニティの結束を強め、地域振興や災害復興にも役立つようなパワーを感じました。二コラさん宮沢さんも、文化の力をお感じになることはありますか。
私が一番感じているのは、コミュニティ内の交流を生み出す力です。職場とか選挙でも交流はあるのですが、それとはちょっと違う。自由意思で集まってきた市民のボランティア・スタッフたちは、様々な場面で議論をして、時には喧嘩にもなるのですが、誰もが対等で自由に意見を言い合える。中には環境問題のように地域社会に関わるテーマもあるのですが、その時に、行政よりも柔軟に、地域社会に寄り添った解決策を出すことができます。
子どもたちが元気な地域は、地域自体も活気づいているという例を各地でいくつもみてきました。その子どもたちを元気にしているのが、地域文化なんですね。地方ですと、子どもたちが地域文化活動に参加するときには、必ず保護者が送り迎えをしますから、大人たちもそこで地域文化に触れる。それによって彼らも、文化を通じてふるさとへの誇りや愛着を抱くようになっているように感じています。
山岡さんと小岩さんは、ご自身の生まれ故郷の文化活動の担い手として活動されています。しかし今日の地域文化活動は、人口減少や高齢化により、その地域の人たちだけでは支えきれなくなっています。地域外の人たちの協力を得たり、呼び込んだりできなければ、生き残れなくなっているのです。
ニコラさんと宮沢さんは、お二人とも、ご自分の出身地ではない地域の文化活動に参加されているのですが、二コラさんはどういう経緯で富山にいらっしゃったのでしょうか。
私はフランスの小さなまちで生まれ育ったのですが、14歳のときに家から出まして、高校に通いながら、ライブハウスのアルバイトをし始めて、裏方の世界に触れました。大学でパリに出て、そこでたまたま富山から来た日本人に出会ったのです。全く日本のイメージがなかったのですが、その方は、自分の家は古いまちにあって、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に、3世代が暮らしている。「うちは広いから遊びに来てください」と誘われて、19歳のときに初めて日本を訪ねたのです。自転車を借りて、田んぼのなかを走ったり、神社を訪ねたりしました。富山の方は遠慮して積極的には地域の自慢をしないのですが、私がホームステイしていたところの方が素晴らしい方で、富山の面白さを伝えてくれました。それで興味がわいて、それから何度も富山にホームステイをしていました。ある日、近くで音楽イベントをやっているから行ってみないかと誘われたのです。それが「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」でした。
小さな文化ホールの中に入ってみたら、なぜかコンゴ共和国のバンドが演奏をしていました。素晴らしい完成度で、しかもスタッフはフレンドリーでとてもいい印象を持ちました。次の年に、何かお手伝いができないかと申し出ました。スキヤキをやっている人たちは、いい音楽を通じて人が集まって、地域が元気になると信じていることを感じました。私はちょうど劇場関係の仕事を探していたので、こちらからお願いして、何か仕事をさせて頂けないかと言ったところ、ちょうどそのころ、スタッフを一人雇おうと考えていたということで、富山県南砺市、当時は福野町でしたが、町立の福野文化創造センターの職員として、運よく2001年に採用されたのです。
「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」は世界中の音楽を集めた音楽イベントですが、地元の文化とは縁もゆかりもない文化活動ですね。今年第30回を迎えるのですが、今ではしっかり地域に定着しています。どのような経緯や努力があったのでしょうか。
スタートした時は、ホールの普通の事業だったと思います。地域の人たちがボランティア・スタッフとして手伝っていたのですが、企画は東京のプロモーターが全部やっていました。でも、自分たちのイベントをつくろうということで、企画・運営のすべてを地域の人たちがやるようにしたことから、関わっている地域の人たちみんなが、スキヤキは自分たちのものだという思いを持つようになりました。
空き家を利用してアーティストが1か月くらい滞在し、地域の人たちにワークショップを行うプログラムも始めました。それでいくつもの市民楽団が誕生し、音楽を聴くだけでなくて、自分たちで外国の音楽を演奏して楽しみ、スキヤキに出演するようになりました。
2014年には、交流しているモザンビークの巨大人形をみんなで制作して、「スキヤキ・パレード」に参加しています。音楽だけではなくて、市民が一緒に楽しめるものはなんでもどんどん取り入れようというやり方をしています。
プロモーター任せだった企画を地域の人たちでやり、地域の人たちが聞くだけではなくて演奏もする。自分たちで文化の創造に関わるということが、地域に定着するポイントになっていたのですね。
さて、宮沢さんもご出身地ではない沖縄で地域文化活動を自ら始められて、毎月、草刈りのために沖縄に通っていらっしゃいますね。「くるちの杜100年プロジェクトin読谷」を始められた経緯を、少し詳しくお話頂けますでしょうか。
「島唄」という曲が90年代の初頭にヒットしました。それで沖縄の三線という楽器を知った人も多くて、「あなたのおかげで三線が全国区になって、よく売れるようになったよ」などと言われることもありました。少しは沖縄のためになることができたのかなと思っていたのです。ところが、ある時、三線職人の人たちと飲んでいたら、ちょうど「島唄」が流行ったころから、三線の原材料である琉球黒檀が輸入に頼りだしたということを伺ったのです。ドキッとしました。物事には功罪裏表があって、僕の歌のせいで三線が売れるようになって、それによって然るべき人に然るべき三線が届かないようなことになってしまっているのではないかと。皆さんは笑いながら話していたのですが、僕はこんなことにも気づかないで何年も時間を過ごしてきたのかと、自分が恥ずかしくて笑えなかったのです。
どうしようかと考えて、ないんだったら僕が植えようと思ったのです。今は琉球黒檀と近い種類の黒檀を東南アジアから輸入しているのですが、全世界からの需要があって、とても貴重で高価なものです。調べてみたら、三線の棹になるのは樹の一番固い芯の部分なのです。くるちは成長の遅い樹なので、100年、場合によっては300年経たないと楽器に使えるほど芯の部分が大きくならない。最初は土地を買って、自分一人でやろうとしていたのですが、これは一人では続けられないなと考えて、県に相談しました。
そうしたら、読谷村というところで、昔、3年間の事業としてくるちを植えたんだけれど、事業が終わって、今は草ぼうぼうになっていると。そこを引き継がないかと言ってくださったのです。沖縄の草というのは成長が早くて、見に行ったら、人間の身長よりも背の高い草が生い茂っていました。でも、それを刈ったら、くるちの苗木が元気よく育っていて感動しました。こんなに生命力の強い樹なら、素人でもできるんじゃないかと思ったのです。何事も始めないと始まらない。今、二千数百本が元気に育っています。毎月の草刈りと年に1回の育樹祭、以前は植樹祭でしたが、それと2年に1回の音楽祭をずっと続けています。
始めないと始まらないというのはおっしゃる通りだと思いますが、それにしても100年というタームは壮大ですね。
確かに、最初、100年以上かかると聞いたときには、僕もちょっとひるみました。でも、明治神宮の杜がある原宿という場所は、もともとは原っぱだったのです。神社というものは、いつまでもそこにあり続けないといけないものです。だからその神社をつくるときに、昔の人たちは100年先の未来を考えて、日本中から樹を集めて杜をつくった。それが今、あんなに立派で美しい杜になっている。それからもうひとつ、バイオリンのストラディバリウスは、材料が枯渇しないように、ずっと昔から植樹をしていると。このふたつの話を聞いたときに、きっと自分たちにもできるという漠然とした自信が湧きました。くるちの旺盛な生命力に触れたことも、それを助けてくれました。
実は、東日本大震災の前から、樹をなんとか植えられないかと調べていたのです。震災で亡くなった方や、今も行方不明のままの方たちも、きっといろいろな夢やいつかこうしたいという希望があったと思うのです。そういう夢や希望が一瞬で消えてしまうということを目のあたりにしたとき、いつかやろうという言葉が非常にもろいものだと気が付いたのです。いつかやろうと思っていたことは、今すぐやろうということで、2012年からこのプロジェクトを始めました。僕と同じような思いを持っていた人は、実はたくさんいたのです。詩人であり舞台演出家である平田大一さんが、読谷村と僕を結び付けてくれた応援団長なのですが、そのほかにも、沖縄県の内外、海外にいる人たちも含めて、最初に僕がやろうよと言い出したことで、多くの人たちが、賛同というよりは、自分の思いとして集まってきてくれたのです。
宮沢さんたちは、楽しくなければ続かないということで、いろいろな企画をされていますね。
毎月の活動が草刈りという、非常に地味でしんどい活動なので、時々沖縄のぜんざいをふるまうとか、民謡の歌い手の人たちが手伝いに来てくれたときには、みんなで唄を歌うとか、草刈り自体が楽しみになるような工夫をしています。年に1回の育樹祭のときには、沖縄の古典音楽の先生方が集まってくださって、「こういう音になってくれよ」と言って、くるちの苗木に音楽を聞かせる。情操教育ですね。2年に1回は、読谷村の役場の中庭に、古典音楽や琉球民謡の先生方たち、プロのミュージシャンや地元の合唱隊や三線教室の子どもたち、エイサーの方々なども集まって、音楽祭も開催しています。
そのほかにもうひとつ、宮沢さんは民謡アーカイブの活動もされていますね。
人間というのは悲しいかな、自分の一生の長さや、1年とか10年という短いタームで自分にできることを考えがちですよね。でも、100年とか200年というタームで考えると、物事はもっと楽しくなるのではないかなと思います。
100年後の子どもたちや外国の方たちが、沖縄の民謡を習いたい思ったときのために、その教科書をつくれないかと考えて始めたのがこのアーカイブ制作です。沖縄の音楽には、工工四(くんくんしー)という独特の楽譜があるので、楽譜どおりに弾けば音楽は再現できるのですが、民謡の場合は、人それぞれに弾き方も発声の仕方も違うのです。これも震災の後に始めた活動なのですが、スタジオにいろいろな民謡の歌い手の方たちに集まって頂いて、一人一曲演奏してもらう。そしてCD17枚組、245曲のアーカイブを制作しました。5年弱かかりました。
くるちの杜のプロジェクトは昨年10年目を迎えました。宮沢さんは、どのような未来像を思い描き、その未来のために、今、どんなことをされているのでしょうか。
ありがたいことに、僕たちの活動はだんだん知れ渡ってきまして、うちの地域でも始めたいという人たちが増えてきました。先ほども紹介しましたように沖縄本島以外の島でも、くるちの植樹が始まっています。もし、読谷村のくるちの杜が病害などでだめになったとしても、いろんな地域のくるちが育っていくというのが、僕の当面の目論見です。
もう少し先を見ると、こういうプロジェクトがあったということを誰も知らないような時代になったとしても、沖縄に普通にくるちが育っていればいいなと思っています。もっと言うと、県民の皆さん、一人に1本、くるちを植えて、ひ孫にプレゼントしようと思ってくれるようになれば、素晴らしいなと思っています。もし、今植えた樹が三線になったとすれば、その間、この地には戦争がなかったということです。今植えた樹がひ孫の世代に届くように、戦争のない時代が続くことも願いながら、くるちの樹を植え続けていきたいと思っています。
宮沢さんたちの世代がいなくなっても、プロジェクトが受け継がれるように、子どもたちに対しても、いろいろ語りかけていらっしゃいますね。
読谷村周辺の小学校から高校、大学にも回りまして、「お出かけくるちの杜講座」というのを続けています。僕たちはこういうことをしているんだよ、ということを知ってもらい、君たちの子どもにも伝えてねとお願いしています。
今、この活動に参加している人たちの誰も、自分たちのやったことの成果を見ることはできないのです。誰の得にも、利益にもならない活動です。未来の子どもたちに県産の三線を伝えたい、その間、平和が続いてほしいという願いがあるだけです。だからこそ、みんなボランティアで参加してくれているのだと思います。
ほかのパネリストの皆さんも、それぞれに未来像を持っていらっしゃると思います。その未来像と、その未来に向けての取り組みについて、お話いただけますでしょうか。
私が住んでいる高知県は、もうすでに人口が70万人をきってしまいました。全国より早く、人口減少が進んでいます。地域だけで文化を担うのは難しいということをひしひしと感じています。「よさこい祭り」にも影響があって、県外に流出する若者が増えて、県内の踊り子さんの数が減ってきています。若い世代のたのしみが、よさこい以外にもたくさんあるというのも、原因のひとつだと考えています。ですから、県外の人が来てくださるのは非常に嬉しいことです。
私たちにとって、県内外の踊り子の人たちが気持ちよく踊ってもらえる環境を整えるということは、重要な課題になっています。市内各地にある競演場や演舞場は、これを準備する地域の人たちの高齢化と人口減少によって、運営が難しくなってきています。現在は、こうした競演場、演舞場も県外から来た方々にお手伝いを頂いています。また、今までは大学生は踊り子として参加することはあっても、スタッフとして活動することはありませんでした。それが昨年、高知大学を中心とした学生が、自分たちに何ができるかということを考えて、学生よさこいという活動を始めまして、運営に参加してくれています。
私は大学も高知で、生まれてからずっと高知ですので、外からの目というのが自分自身欠けているのかなとは思うのですが、よさこいが大好きという話を、地元の人たちとも、外から来た人たちともできるような、そんな地域文化を守り続けていきたいと思っています。
南砺市は8町村が合併してできた人口5万人のまちです。面積もとても広く、合併した8町村がそれぞれに個性的な地域文化を持ち、プライドもある地域ばかりなのです。そうした中で、最も新しくできたスキヤキは、こういう地域同士をより近づかせる役割ができるかもしれないと思っています。こちらから出かけていって、南砺市全体にスキヤキを広げるとともに、スタッフとして、いろんな地域の方に入ってもらい、交流し、親しくなってもらえればと考えています。
また、スキヤキが始まったころは、ワールドミュージックのファンは非常に少なかったのですが、グローバル化の進展とともに、若い方たちを中心に、特にアジアの音楽に関心を持つ人たちが増えてきました。そういう人たちによる、ワールドミュージックの小さなイベントが各地にありますので、彼らと交流をして、できれば、山岡さんがおっしゃったように県外からもスタッフとして参加してもらえればと考えています。30年の歴史を持つスキヤキのノウハウやネットワークを学んでいただくとともに、彼らの新しいアイディアを活かして、スキヤキも成長していければなと思います。
私は自分のふるさとで生きた年数と、外で暮らした年数が半分半分になってしまいました。ですから、中にいただけでは分からないこと、外から見ただけでは分からないことをつなぐ役割になっているように思っています。地域の人たちがどのような思いと願いをもって地域で暮らしているのか、地方から東京に出てきた人たちがどのような思いでいて、どうすればふるさととつながっていけるのかということを考え、その思いを発信したり、願いの実現のために活動していきたいと考えています。
具体的にどういうことをしているのかというと、例えば、「東京鹿踊」という活動をすることによって、なんだ、東京で鹿踊をやっている奴がいる、という思いで、かえって関心をもってくれます。伝統芸能の道具というのは、200年、300年前から伝わる古いものばかりなのですが、今、つくっている人もいるので、それを習って、自分たちでつくってみようという活動もしています。東京で私たちの活動に参加してくれている美術大学の学生が、私の地元に来て、鹿頭(ししがしら)の作り方を学んでいます。方言がまったく分からなくて苦労しながらも、どんどん作り手の方に質問して、自分なりの鹿頭をつくり始めました。もしもその人が作った鹿頭が100年後、200年後にも残っていて、これをつくった人はどんな人だったんだろうと思ってもらえたら面白いなと思っています。
あえて外側で郷土芸能をやってみることで、内側の人たちがかえって関心を持ったり、新しい視点に気づいたりということをすることで、郷土芸能や地域を元気にすることができればなと考えているところです。
最後の質問です。これまで皆さんが活動されてきた中で、一番楽しかったこと、嬉しかったこと、感動されたことって、どういうことでしょうか。
樹って、1年や2年ではそんなに変わらないだろうと思っていたのですが、樹にもそれぞれに個性があって、急に伸びてくる樹があったり、元気がなかったのに、見守っていると、けなげに頑張って元気を取り戻したり。樹を植えて、草を刈るという単純で地味な活動なのですが、そうしたちょっとした変化を見るのが楽しくて楽しくて。最初に苗として植えたときには、どれもそんなに変わらない。100年後、200年後に三線になるときも、そんなに変わらないのかもしれないのですが、その過程ではいろいろな変化があります。その成長を毎月見られるというだけで幸せです。自分は見ることも聴くこともできないのですが、その樹が三線になったときの音をイメージするだけで、喜びに浸ることができます。
私は、「よさこい全国大会」を立ち上げたときのことが一番印象に残っています。立ち上げのときは時間がなくて、それこそ死にものぐるいでやっていたのですが、踊っている人も観ている人も、とても楽しかったと言ってくれました。いろんな地域の踊りを観ることができたと。高知の人は、うちが本場だという風に思っていて、よその地域のよさこいを観に行くことはなかったのですが、「遠い地域の人たちが、こんな風によさこいを楽しんでくれているがやねー」と言って喜んでいる。県外の人たちも8月の暑い高知で、どんどんとお腹に響くような大音量のもとで踊れて本当に良かったと言ってくれた。やったーと思いましたね。
私が20年前にはじめて日本に来た時、小さなまちですので外国人はあまりいなくて、スーパーに行くと、私が買い物をするのをみんなが珍しそうにみているというところからスタートしました。それ以降は、空き家でアーティストが滞在するようなプログラムも始まって、外国人がまちにいるのは普通のことになりました。三味線のお師匠さんのところに、海外から来たアーティストが習いに行ったりしている。また、最初のころ、地域の人たちは、ワールドミュージックは敷居が高いと思っていたのですが、今では、コンサートの時に一列目で踊っているのは、親に連れられて毎年来ている、地域の子どもたちです。スキヤキが、普通の夏まつりになったのです。長く続けるうちに、異文化を普通に受け入れられるようになったということが、とても感動的なことだと思いました。
私はじぶんがやっている鹿踊をもっと知ってもらいたいと思っているだけではなくて、鹿踊のような郷土芸能をやっている人たちが、日本全国、世界中にいるということを知ってもらいたいと思っています。その人たちが、芸能で食べているプロではなくて、それぞれの地域で暮らしながら、自分なりの素晴らしい表現をしているということに気づいたとき、自分がとても感動したことを覚えています。
では最後に、皆さんに、このフォーラムを観てくださっている若い人たちへのメッセージをお願いしたいと思います。これからの地域文化を支えるのは、若い世代の人たちです。すでに活動に参加している人、関心はあるけど参加をためらっている人、自分で活動を始めようとしている人、そして、全く関心のなかった人もいらっしゃることでしょう。そういう皆さんに対して、実際に地域文化活動の現場で活動されている皆さんから、一言、お願いいたします。
地域文化というと、自分たちの世界だけに閉じこもってやっているのではないかと思う人が多いと思うのですが、そんなことはありません。ずっと昔から、よその地域、山の向こう、海の向こうからやってきた人たちが村に泊めてもらって、その土地のひとたちに影響を与えて生まれた、あるいは成長を遂げてきた地域文化がたくさんあります。地域に住んでいる人たちは、外の人たちが自分たちの文化を変えてしまうのではないかと恐れて閉じこもるのではなく、自分たちが生きていくうえで必要な変化を求めて、外から来た人たちを受け入れる。そして、外の人たちも、恐れずに地域の中に入っていってみる。そんな若い人たちが、これからの地域社会をつくってくれればいいなと願っています。
スキヤキは世界と接点をもつことによって、地域が直面しているいろんな問題に対するアイディアが発見できる創造的な音楽イベントです。キーポイントは交流だと思います。普段はなかなか出会えないような人たちと出会える。それだけで人生30倍くらい楽しくなっていると思います。音楽に関心がなくても、交流のきっかけとして考えて活動に参加してほしいと思います。そしてそこで、自分の持っている力を発揮すると、地域に自分のカラーを出していける。活動に参加しなければ、自分には損ですし、地域にとっても損なのです。
うちの地域のイベントは固すぎるとか、トップでやっている人たちの自己満足だとかいう不満をよそでよく聞くのですが、それだったら自分でやってみろ、トップを倒せと私は言うのです。自分で動かない限り、自分の意見を取り入れてもらえないからつまらないというだけでは、何も変わらない。でも、どうしても自分の地域のイベントが自分には向かないと思うのでしたら、富山県南砺市に来てください。
私がやっている正調よさこい鳴子踊りというのは、お年寄りから小さな子どもさんまで踊れる踊りです。ゆるーく、みんながニコニコと踊れる巻き込み型の踊りなのです。自分が楽しいと思えないものは続かないのですが、若い世代の人たちには、「まぁ、いっぺん、やってみぃやぁ」と言いたいです。やってみないと楽しいかどうか分からないですから。ともかく一緒に、楽しみましょう!
沖縄はとても芸能が豊かな島です。あれだけ戦争でひどい目にあって、今でも戦後のいろんな問題が残っている中で、どうしてこんなに芸能が盛んなのだろうかと考えたのです。エイサーという芸能があります。あれはお盆の時期に祖先の霊を迎えて、踊りでもてなすもので、もともとはそれほど派手なものではありません。そこに、創作エイサーというものが生まれました。大きな太鼓をいくつも持って、大人数でパフォーマンスとして演舞する。あんなものはエイサーではないという声もありました。いやいや、新しいことを取り入れていかないと、伝統はすたれるよという意見もありました。でも、いつしかお互いが理解しあって協力するようになると、車の両輪となって、伝統エイサーも創作エイサーも、以前よりも勢いづいて走り出しました。音楽の世界でも同じで、琉球王朝が中国の役人をもてなした古典音楽と、庶民が各地域で楽しんだ民謡というのがあって、それが両輪となって沖縄の芸能を豊かにしているのです。
先ほども山岡さんのお話を聞いていて、よさこいも同じだなと思いました。正調があって、後から生まれた自由なよさこいもある。どちらか一方では、祭りは先細ってしまうのではないでしょうか。古いものと新しいものの両方があってはじめて、若者たちもそのどちらかに惹かれ、あこがれて、活動に参加してくれるのではないかと思います。
若者たちがあこがれて、活動に参加してくれるようになるには、大人たちがカッコいい姿、楽しんでいる姿を見せないといけないのでしょうね。ありがとうございました。
何百年の伝統を持つ伝統文化、世界中の文化、そして昭和や平成の時代に生まれた新しい文化が、日本の全国各地で多くの人々に愛されています。こんなに楽しくて素晴らしい地域文化活動が、もしも、これから先20年30年の後に途絶えてしまったら、ご先祖さまや先人たち、未来の子どもたちに申し訳がたちません。地域文化を守るのは、今を生きる私たちの世代の責任なのですから。
今、私たちにできることは何か。
今回のフォーラムを通じて、一人でも多くの方が、このことを考え、地域文化の未来のために、一歩足を踏み出してくださることを期待し、祈りをこめて、シンポジウムを終了したいと思います。ありがとうございました。
宮沢和史(みやざわ かずふみ)
大学在学中にTHE BOOMを結成、代表曲「島唄」は国内外で大ヒットした。100年後の沖縄を三線の棹の原材料である黒木(くるち)でいっぱいにしたいという想いから、2012年「くるちの杜100年プロジェクトin読谷」を設立。植樹や草刈りなどのために、足しげく沖縄を訪れている。
小岩 秀太郎(こいわ しゅうたろう)
郷土芸能「行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅうまいかわししおどり)」の継承者。東日本大震災を契機に芸能の魅力発信や復興支援などに携わり、縦糸横糸合同会社と東京鹿踊を結成。東京と東北の二拠点で、東北の地域文化の継承と発展のためのプロモーションやコーディネイトを行う活動も続けている。
ニコラ・リバレ
フランス・ブルターニュ州出身。学生の頃から何度も富山県を訪れ、南砺市で開催されているワールドミュージックの祭典「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」にスタッフとして参加。その後、南砺市に移住し、同イベントの総合プロデューサーに就任した。
山岡 奈穂子(やまおか なおこ)
小学生の頃から「よさこい祭り」に参加。現在は「高知市役所踊り子隊」のメンバーとして正調よさこい鳴子踊りを披露し、後進への指導にも尽力している。また、高知市役所職員として、「よさこい全国大会」の立ち上げや、「よさこい移住」という取組を行ってきた。
小島多恵子(こじま たえこ)
長年にわたり全国の地域文化活動を調査・研究。著書に『ふるさとをつくる -アマチュア文化最前線』など。