林田直樹
2015年度のプロデューサー、音楽学者・長木誠司さんについて、まず、私自身が個人的に知っている2、3の事柄について、率直に書いてみたい。
長木さんと初めて仕事でご一緒させていただいたのは、私が「音楽の友」編集部にいた頃、確か1990年頃に作曲家ソフィア・グバイドゥーリナが来日した時であった。大衆的なクラシック音楽雑誌のなかで、現代音楽の記事を少しでも作りたいという私の希望に共鳴してくれて、面倒な取材にも付き合ってくださり、良い記事を作ることができた。そのとき以来のお付き合いである。のちには私が企画をスタートさせた「レコード芸術」の座談会連載にも面倒な司会役を快く引き受けて下さった。
私が長木さんについていつも感じていたことは、現代音楽を専門とする音楽学者という肩書でありながら、決して専門に閉じることなく、実際にはかなり広いジャンルの音楽(大衆的なものも含めて)をフォローしようと意識されていること、そうした全体を俯瞰しながら、現代音楽の置かれたポジションについて冷静に見ておられること、そして一見クールに見えて実は根は直情径行なくらいの熱血漢であることである。
たとえば、今回はツィンマーマンとシュトックハウゼンという選択をされているが、どちらも共通点は声である。さまざまなコンサートホールや劇場で長木さんにお目にかかって感じていたのは、彼が実はオペラの声ということに関して、かなり熱い意見をいつも持っていることである。このことはあまり知られていないのではないだろうか。
それから、音楽ジャーナリズムのあるべき姿についても長木さんが強い信念と行動力を発揮されてきたことについても、改めて思い出しておきたい。音楽之友社が1998年に「音楽芸術」誌を休刊させたとき、同誌が果たしていた役割を誰よりも重く見て、雑誌の継続のために長木さんが奔走され、新雑誌エクスムジカ(現在は休刊中)の発刊に至った事実を覚えておられる方も多いかもしれない。
雑誌が「雑」であることの大切さを長木さんは以前私に語ってくださったことがあった。一つの結論だけではなく、さまざまな意見が雑多に集まり、束となって、議論の磁場を作ること。それが音楽界を活性化させるということを長木さんは誰よりも考えている人である。
その他にも、サントリー芸術財団との関わりのみならず、たとえば日生劇場のアリベルト・ライマンのオペラ作品の上演にドラマトゥルクとして参加するなど、評論家に留まらず実践的でもおられるということも、長木さんの大きな特徴である。
前置きが長くなったが、そんな長木さんが、2015年度のプロデューサーとして選んだのは、ベルント・アロイス・ツィンマーマン(1918-70)の《ある若き詩人のためのレクイエム》(1967-69)と、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)の《シュティムング》(1968)。
この二つを並べて気が付くことは、どちらも1960年代末の作品であるということだ。当時は70年安保闘争、ビートルズの解散直前の時期にあたる。世界的にヒッピームーヴメント、反戦運動やカウンターカルチャーが盛んだった、ある特別な時代…。
ツィンマーマンにしてもシュトックハウゼンにしても、「あの頃」の作品なのだ。
長木さんは語る。
「ツィンマーマンのはまさにそういう時代の作品ですね。この中にはいろんなテープ・コラージュが入ってきますけど、その中には50年代のデモの騒音も入ってきます。でも基本的にはツィンマーマンが意識しているデモは(学生運動ではなくて)、東西冷戦の対立なんですね。そうやって割と雑駁なものを入れてくるというのはカウンターカルチャーの時代を反映しています」
ツィンマーマンの《レクイエム》を聴いてみると、そこで使われている音声のコラージュはものすごいヴォリュームを持っている。ヒトラーやゲッベルス、毛沢東らの政治的演説、マヤコフスキーのような独裁の犠牲者の言葉、ベートーヴェンの第9やビートルズの《ヘイ・ジュード》の引用など…。
そこには、声、声、声の混沌たる集成がある。
その意図はいったい何だろう?
問題は、そこで語られている言葉がドイツ語を中心とする他言語であることだが、今回の上演では、それをていねいに紐解いていくために、スクリーンを使って、いろんな言葉を同時に動かしたりと、字幕も工夫していくという。
「ただ、すべての言葉を理解し聴き取れることが重要ではないんです。騒然とした音響上の面白さ、実験の要素もあるので。声も言葉もその延長なんです。ただし重要な言葉はちゃんと押さえていかなければ、とは思います」
このあたり、言葉と音楽のバランスをどうとる上演となるのかは、楽しみなところだ。
一方のシュトックハウゼンはどうだろうか。
6人が車座になって寄り集まって、ひそやかに歌う様子は、インドの瞑想を思わせる。それはビートルズが一時期強い関心を示したインド音楽の雰囲気に似ていなくもないが…。
「シュトックハウゼンはいつも超然としている人なんですね。《シュティムング》は、彼がわりとハッピーな時代のものです。でも確かに6人が集まって怪しげなことをしている(笑)。そこには、非ヨーロッパ的な音楽文化への関心が入っていますね。倍音唱法も、いまではホーミーなんかが有名ですが、当時のヨーロッパからしたら異質な声の使い方だった。そんなことをやっている人はいませんでしたから。そういう意味では、ヨーロッパ文化が1960年代に外の文化に改めて強く関心を持ちはじめた時代の作品ですね」
それにしても、いまなぜ1960年代末の前衛作品を取り上げるのか。
理由の一つとして、大掛かりすぎたり、演奏が難しかったりといった事情で、これまでなかなか日本で取り上げてこられなかった、「20世紀音楽の古典」を紹介することの意義がある。
だがそれだけなのか?
「メッセージじたいはヨーロッパでも日本でも変わらないし、いまでも生きると思っているんです。特にツィンマーマンの作品は、基本的にレクイエムですから。レクイエムというのはやはりあらゆる時代に通用する死についての真実を歌い上げているわけですし、それはたまたま1960年代の終わりの世相を反映していますけれど、基本的には、人間が生きていくうえでの強い困難、あるいはそれが失われたときに何が起こるのか、そのとき人はどう思うのか、どう考えるべきか、みたいなことがテーマなんです。実は、戦後70年という機会でもあるので、今回のプログラムにはやはり何らかの追悼ということも盛り込みたかったんです」
率直に書こう。
ツィンマーマンにしてもシュトックハウゼンにしても、録音を聴いての個人的な感想から先に記すと、まず感じるのは、何とわくわくするようなスリリングな、極限的に異様な音響世界であることか!という興奮である。その中心となっているのは、長い前置きの中でご紹介した、やはり「声」というものの力である。
正直いって、意味を「理解」するのはむずかしい。だが、どちらの作品も、悪夢のように過激で、醜く、しかし美しい。使われている人間の声すべてが、意味のあいまいさを含めて、何かある特別な雰囲気、強烈な世界観を形作っている。
もっと言うと、「声」の諸相というものに対する偏愛を刺激させられる音楽体験なのだ。
時代を超えて不変の価値を放つのが真の名作であるならば、1960年代に生み出されたツィンマーマンとシュトックハウゼンの作品が、現代の私たちに伝えてくれるメッセージとは、一体どういうものなのか?
次回では、それをもう少し具体的に、突っ込んで考えてみたい。
林田直樹
現代ほど、言葉というものが衰弱してしまった時代はない。
たとえば政治の世界でいうなら「平和」とか「絆」とか、あるいは音楽の世界でいうなら「感動」とか「斬新」といったキャッチフレーズたちが、どれほど空洞化され、その響きが虚しさをともなうものになってきていることか――それを実感されている方も多いことだろう。
インターネット上のSNSなどで交わされている言葉については、いうまでもない。誰が誰に向けて何を語っているのかを、ときにはわざとあいまいにするような、こうした所在ない言葉の集合空間で必然的に生じてくるのは、ただただ好き勝手に発信するだけで、自分にとって都合の良いもの、わかりやすいものだけしか受信しないという態度であり、浪費される言葉の虚しさのさらなる増大だろう。
今回の上演はそうしたことと大いに関係がある。
プロデューサーの長木誠司さんと話してみて改めてわかったことは、ツィンマーマンの《ある若き詩人のためのレクイエム》が、まさにその言葉で伝えることの無力感、音楽を含めた詩的言語の衰微について語られている作品なのではないか、ということだった。
この作品は、いうなれば言葉の海でできている。
それは主にドイツ語のさまざまな話者による歴史的な演説や朗読、群衆の叫びの音声記録、語りや歌で成り立っているのだが、それらの混沌とした声の濁流から想起されるのは、やり場のない無力感とも怒りともつかぬ激しい感情であり、何かかけがえのない価値が断末魔のうちに滅び去ろうとしているという感覚である。
レクイエムだから確かに美しい面もある。
だがこれは何という醜さをはらんだ、絶望的でいらだたしいレクイエムなのだろう。
言葉というものが本来もっていた、霊的な力、呪術的な力が、根源的な暗さをもって立ち上がってくるような世界…。理解する、しないという次元を超えて、その衝撃はとてつもなく大きい。
このいらだたしさの源とは何なのだろうか?
「もうどうにでもなれ。何もかもが無意味でばかばかしいのだから…」というニヒリズムからのぎりぎりの抵抗と闘いのしるし、良心のありかがここには聴き取れまいか?
日本の状況と照らして考えてみれば、問題はよりはっきりする。
ツィンマーマンがこの《レクイエム》を書き上げた後に自殺した1970年は、日米安保闘争をテーマとする学生運動と騒乱の頂点であった。それと同時に世界的にもヒッピームーヴメントが大きなうねりを見せ、演劇・映画・美術・音楽すべてにおいて、カウンターカルチャーの最盛期があった。
さらには、それらが急速に失墜し、形骸化され、マーケットへと吸収されていくプロセスとして、1980年以降の文化状況があった。
そして2011年3月、日本は大津波と原発事故によって未曽有の国難に遭い、戦争にも等しい危機的な状況に誰もが戦慄した。
現代の私たちにまとわりついて離れないのは、冒頭に書いたような「言葉」の衰弱と上滑りと空洞化であり、ツィンマーマンの《レクイエム》に表明されているような、怒りとも虚しさともつかぬコミュニケーションへの「無力感」にほかならない。
そうした状況がいまの芸術の世界とどうつながっているかといえば、「詩」と「音楽」という、ひとの人生の本質にとって一番かけがえのない営みであり、真の良心と賢明さのよすがであるべきものが、これ以上ないほどに軽視・侮蔑されている、ということではないだろうか?
そうした実感をもっとも鋭く抉り出しうるのが、今回上演されるツィンマーマンの《ある若き詩人のためのレクイエム》である。
ところで、過去に日本で行われたツィンマーマン作品の上演で決して忘れられないものとして、新国立劇場で晩年の若杉弘(1935-2009)が執念の上演を行ったオペラ《軍人たち》(2008年5月日本初演)がある。
あの冒頭の絶望とも怒りともつかぬ苦しげな葛藤の響きは、ベートーヴェンの第9交響曲第4楽章冒頭や、ブラームスの第1交響曲の冒頭部のDNAを継承し、ベルク《ヴォツェック》を経由して、現代に直接通じようとする意志を伴っていた。
それはすなわち、ある矛盾や不可解さや不条理に直面したときに、人間性の奥底から反抗的に噴き出してくる、濁流のようなエネルギーといってもいい。
そしてつい最近では、インゴ・メッツマッハーが新日本フィルを指揮してベートーヴェンとツィンマーマンを組み合わせたメッセージ性の強いプログラムを打ち出していたことも記憶に新しい。
今回のサマーフェスティバルでの《ある若き詩人のためのレクイエム》は、それらの流れを受けての総決算的な、一大イヴェントとなる。
総勢200名による巨大編成オケと合唱団を統率し、この作品に内在する理性と狂気を引き出すという点において、大野和士ほどふさわしい指揮者もいない。何しろ大がかりで演奏至難とされるこの曲がライヴで聴けるのは、千載一遇の機会なのだ。
今年の夏は、戦後70年という節目の夏でもある。そこでさまざまな人が多くの言葉を語るだろう。そうしたとき、冒頭に述べたような言葉の問題の深部に触れているこの《レクイエム》の上演がどのようなリアリティをもって響いてくるのか――?
今から楽しみでならない。
林田直樹
シュトックハウゼンの《シュティムング》は、究極のヘンテコ音楽である。
「理解する/しない」「わかる/わからない」という次元にこだわっていたら、おそらくいつまでたっても、作品に近づくことはなかなかできまい。
まずは、その奇妙な音楽の外形を、笑ってしまおう。
「ダルマダイコン、ダルマダイコン、あいあいあいあいあいあいあい、さらみ~」
「うわ~うわ~うわ~うわ~うわ~、カユカユカユカユ、ぽっぽっぽっぽっ」
「あんなんなんなんなんなんなんなん、ほにゃおー」
「ういういういういういういうい、アナナ~アナナ~アナナ~アナナ~」
ええっ、何がかゆいって?
テレビで見るような芸人の漫才の出来の悪いものよりも、ずっと楽しく心から笑える、究極の芸がここにはある。
子供だって、くすぐられたみたいに《シュティムング》を聴いて笑うに違いない。
だって、面白いもの。気持ちいいもの。無邪気だもの。
なんて素敵な音の戯れがあることか!
しかもこれは、人を笑わそうとしてやっているのではない。実は大真面目に、非常に難しい高度な技術を用い、内在化された厳密な論理のもとに(それらについて、私たちは必ずしも、全部を理解する必要はない)、細心の注意を払いつつコントロールされている音楽なのだ。信じられるだろうか?
私もスコアを見てみたが、その記譜の細密さ、数字や記号や音声の膨大な指定に、クラクラとめまいがするほどだった。恐怖のあまり思わずパタンと楽譜を閉じてしまったほどだ。これを本当に読み、演奏できるのだろうか?
なのに、聴いた感じは遊びとしか思えない「あいあいあいあいあいあい」である。
かつてリルケが言ったように、精魂込めた仕事が一見滑稽な外観をとることにこそ、実は現代音楽の美の奥義があるのかもしれない。
過去の《シュティムング》の上演風景の記録写真を見ると、洞窟や暗がりの中やプールサイドのような場所など、風変わりなシチュエーションで、マイクを手にした6人の歌手が車座になって座布団の上に座り込んでいる様子がうかがえる。靴はどうやら履いていないらしい。ヒッピー風の帽子をかぶっていたり、サイケなデザインの服を着ている歌手の姿も見える。いわゆるクラシック音楽風の正装ではまったくなく、むしろ普段着がほとんどだ。
椅子に座って暮らすのが当然のヨーロッパの生活文化や、通常のコンサートの儀礼的なマナーからすると、これはかなり異質な演奏風景だろう。むしろインドの瞑想のような雰囲気が、妖しい儀式性が、非ヨーロッパ的な何かが、ここには感じられる。
そして聴衆は、この不思議な声の戯れの世界を取り囲み、一体となって参加するのだ。なんとエキサイティングな体験であることだろう!
プロデューサーの長木誠司さんは「6人が集まってラリっているみたいに怪しげな」と自嘲気味に笑っておられたが、それはあながち冗談ではないと思う。これは、声と作曲の技術によって合法的にラリっている音楽――最初はそれでいい。
シュトックハウゼンが《シュティムング》について書いた文章をひも解いてみると、そこにはなかなか興味深いことが記されている。
作曲されたのは1968年2月から3月にかけて、妻と二人の子(2歳&生後8か月)と暮らしていたコネティカット州マティソンの雪降る家でのこと。
仕事机の窓越しからは地平線まで氷に覆われた湖面が見え、夜更けまで一人で声を出して、独り言のように口ずさんていると非常に奇妙なことに気がついたという。
さまざまな母音を長く伸ばすと「皮膚や口腔、鼻腔、前頭部が振動」し、母音ごとに決まった倍音を特に大きく聴かせることができる――正確に倍音を強調することが可能である――そのことによって倍音グリッサンドを試すことができたので、一からスケッチと作曲をやり直した。そう書かれている。
この何の変哲もない記述に、深い意味を読み取ることができると思う。
シュトックハウゼンの二人の子供は、まだ幼い。きちんと話すことはできず、赤ちゃん言葉で「あぶーあぶー」といった不思議な楽しい音声を発していたのを、作曲家は毎日のように耳にしていたはずである。
真夜中に一人で、赤ちゃんと同じように声を自分で出し、母音を長く伸ばしながら彼が感じていたのは、一種の原初的な皮膚感覚である。雪の夜中はさぞかし静かだったことだろう。そこで自分の身体のなかのある部分が震え、共鳴するのを赤ちゃんと同じようにびりびりと感じ、新しい音を見つけ、聴き取り、そこからスタートして「一から作曲をやり直した」。
その真剣さ、崇高なまでの荒唐無稽さに、心を打たれずにはいられない。
こんなにも一所懸命になって、赤ちゃんの声を聞きながら、自分でそれを試し、分析し、実践し、構築していった作曲家が、他にいただろうか?
まずは《シュティムング》の滑稽さを、そしてラリっている儀式の怪しさを、思い切り笑ってしまおう。しかしその後に、何かが残るはずなのだ。人間の声で、ここまでいろんなことができるのかという思い、それはどこか懐かしい、赤ちゃんの原初的な声の世界にも通じあっている。
シュトックハウゼンによれば、そこで使われている詩は、あらゆる文化の神々の名を魔術的に呼ぶことでもあるらしい。やはりこれは、途方もなく美しい試みなのである。
林田直樹
これまで、バッハやベートーヴェンやブラームス、ドビュッシーやストラヴィンスキーを楽しんできた人が、今回取り上げられているような「前衛音楽」を聴くときにはどうしたらよいだろうか?
もはや普通のメロディも和声も見出すことはできない。
一見難解にみえるそこには、いかなる美学があるのか。
どんな聴き方が求められるのか?
結論からおおざっぱに言ってしまうと、「響きそのもの」を聴こうとすること。
それが一つの突破口となるのではないだろうか。
シュトックハウゼンの《シュティムング》の場合、それは倍音の響きである。
ホーミーにも似た倍音唱法――奇妙で幼児的とさえ思えるが、厳密な指定に基づいて変化する特殊な発声――が目指しているものは、いかに倍音を豊かに出すかということである。
倍音とは、ひとつの音に対して複数的・同時的に生じる、別のもっと高い周波数の響きである。それは影のようであり、虹のようでもある。
声であろうとピアノであろうとヴァイオリンであろうと、私たちは実際の音プラス、この倍音を無意識のうちに聴いている。
その影や虹の響きにこそ、うまみがあるということが、最近はどうやら明らかになってきている。そこには音楽の奥義にかかわる秘密が存在する。オーディオ業界が近頃色めき立っている「ハイレゾ」の技術も、通常のCDではカットされるこの倍音のうまみを再現することを目的としたものである。
《シュティムング》は、この響きのうまみを抽出するための試みであり、儀式だといっても過言ではない。
ところで、《シュティムング》にはほとんど具体的な言葉はないが、コミカルでエロチックな詩による言葉遊びめいたものが少しだけ出てくる。これは昨年の《歴年》でもみられた現象で、シュトックハウゼンの特徴でもあるのだが、厳密で周到な手続きによって作られた作品のなかで、そこに誰も笑えないギャグのような冗談を乱入させるのだ。
この荒唐無稽な馬鹿馬鹿しさにどうやって耐えればいいのか?
そもそもシュトックハウゼンという人自体が、「自分はおおいぬ座のシリウスからやって来た使者」だと大真面目に信じていた人である。ほとんど誇大妄想の世界なのだが、ある意味罪がない、誰もが本気で相手にできない、馬鹿げているという点において、おそらく確信犯である。
しかしながら、その馬鹿馬鹿しさを大真面目に追いかける、しかも周到で狂気じみた厳密な手続きによってそれをやり抜こうとする――その態度には、何かある美しさ、崇高、無垢といったものが感じられるのも確か。そして、それがシュトックハウゼンの人間的魅力でもある。
響きの話に戻ろう。
ツィンマーマンの場合はどうだろうか。
《ある若き詩人のためのレクイエム》は、意味を宿した言葉、言葉、言葉…の集積によって作られている。
巨大なオーケストラ編成、4群の合唱、そして電子音響とテープ。それらの大規模な仕掛けによって生み出されてくるのは、政治家や文学者、哲学者や音楽家たちの膨大な言葉のコラージュが織り成す「響きの混沌」だ。
強い調子の演説、冷静な独白、怒りに満ちた言葉、興奮した群衆の叫びや悲鳴。
すべての言葉には感情や思考や状況がある。それらの総体を、レクイエムの祈りの言葉とともに、響きの混沌として、聴き手は体験する。
今回はできるだけ聴衆がその言葉の意味をさぐりやすいように、日本語へと解きほぐす視覚的な試みが行われるが、やはり肝心なのは、細分化や分析ばかりにならず、響きとして直観的に聴き、身体で感じることだろう。
Wergo盤を聴いての私個人の主観的な印象を述べさせていただくなら、この曲は、孤独で閉じられた、宇宙ロケットの中のような空間を感じさせる。そこには汚染した大気、暗い文明、独裁と抑圧と殺戮の記憶と予感、そして時代の苦悩を一身に背負ったようなおののきと慟哭がある。両手を耳に当ててうずくまり「ウワーッ」と叫びたくなるような、意味、意味、意味…の錯乱による、狂気への誘いがある。
この曲が語ろうとしていることは、結局のところ――ほんとうの詩も、音楽も、人間としての偉大さや祝福も、若い希望も、すべては見失われ、死に絶え、終わろうとしている――そのようにさえ思えてくる。
これを大野和士指揮の実演で聴いたら、どれほど恐ろしく暗い響きによってどん底に叩きこまれるのだろう? あるいは何か一縷の光が見えるのだろうか?
シュトックハウゼンの《シュティムング》が、天真爛漫で荒唐無稽な遊びにも似た幸福な作品であるならば、ツィンマーマンの《レクイエム》は、誠実な良心と知性によって極限まで格闘しようとする苦悩の作品である。
そのどちらもが、メロディや和声を求めるのとは全く別の考え方――「響きそのもの」を聴こうとすること――にさえ慣れてしまえば、案外親しみやすいものとして受け入れることができるようになるはずだ。
「前衛」は決して怖いものでもなければ、過剰に知的でスノッブなものでもない。ごく限られた一部の専門家だけのものでもない。接し方のちょっとしたコツさえつかんでしまえば、きっと誰にとってもエキサイティングな体験になるはずだ。
今回の2つの実演も、楽しみでならない。