記憶の海に沈んでしまっていた曲が、映画の中でよみがえったことがある。ジョージ・クルーニー監督作品「グッドナイト&グッドラック」(日本公開2006年)を観たときだった。
映画では、ダイアン・リーブスが歌うシーンが何度も挿入されていたが、エンド・ロールになっても彼女の歌声に酔いつづけた。
「One for My Baby」。本歌は1943年、フレッド・アステア。フランク・シナトラやメル・トーメ、ビリー・ホリデイをはじめ数多くの歌手がカバーしている。ダイアン・リーブスは甘く、切なく、語るように歌う。流れ行くクレジットに目をやりながら、指先から背筋、そして脳天にかけて痺れるような感覚に包まれていた。
かつて酒場の先輩たちは、バーを愛する者ならば一度は「One for My Baby」を聴いてごらん、と若輩のわたしに教えてくれた。
午前3時15分前、閉店間際のバー。恋人と別れた男がカウンターに着く。早く店を閉めたいジョーというバーテンダーに男は愚痴る、という内容の歌だ。
"Make it one for my baby and one more for the road"の気になる歌詞が繰り返し登場する。単純に解釈すれば、"一杯は別れたあの娘のために、そしてもう一杯は帰る俺のためにつくってくれ"となるだろう。ジョーは男の気持ちを汲んで、帰り道の元気づけの一杯をつくらなければならない。
6月、雨がしのつく深夜、「One for My Baby」で遊んでみた。ひどい天気に、予想通りバーの客足は途絶え、カウンターにわたしひとりきり。
バーテンダーに思いを告げ、「グッドナイト&グッドラック」のオリジナル・サウンドトラックのCDを渡し、かけてもらった。
「こんな雨の夜が似合うような気がする。いま、わたしが失恋してきたばかりだとして、ワン・フォー・ザ・ロードに何をつくってくれるかな」
身勝手な願いにバーテンダーは嫌な顔もせず、わずかな間を置いて答えた。
「ゴッド・ファーザーです。強く、甘く、包み込むような優しさがありますからね」
彼がこう言った瞬間、身体が痺れた。スコッチウイスキーとアマレット・リキュールだけのシンプルなレシピだが、美しすぎるほどの見事な回答である。
「ディサローノ・アマレット」。このイタリアの有名なリキュールには切ない恋の伝説がある。まさにワン・フォー・ザ・ロードにふさわしい。
舞台はルネサンス期、1525年頃。画家でレオナルド・ダ・ヴィンチの優れた門人のひとり、ベルナルディーノ・ルイーニが、ミラノの北、サローノの町のサンタ・マリア・ディ・ミラーコリ教会にキリスト生誕のフレスコ画を依頼された。彼は旅籠の若く美しい女主人をモデルに選び、聖母マリアを描き上げる。制作の間に互いに惹かれ合い、彼女の肖像画をも描いて贈る。
女主人も自らの思いをリキュールに映し、返礼として画家に手向ける。ルイーニはその麗しい香味に彼女を重ね、次の依頼主のもとへ旅立った。
そのリキュールが世に知れ渡るようになったきっかけは1807年のこと。サローノの町の食料品店店主、カルロ・ドミニコ・レイナがレシピの権利を買い取り、復元した。本格的に製造するとたちまち大評判となり、ディサローノはアマレット・リキュールの代名詞として200年以上も愛されつづける。そしてルイーニの画はいまも教会に保存されている。
杏(あんず)の種子の核がもたらす、アーモンドとも杏仁豆腐とも表現できるフェミニンな感覚に包まれた独特の風味には、切なくも温かく抱きとめてくれるようなコクがある。
カクテル「ゴッド・ファーザー」は映画公開にちなんで生まれたものだが、ディサローノがシチリア産の杏の核を使用していることからも、よく考えられたレシピだ。ベースのスコッチウイスキーの芯の強さのなかに、はかない恋から生まれたディサローノの柔らかくふくよかな甘さが溶け込んでいる。心落ち着かせ、帰り道に勇気を与えてくれる。
ここにいるはずもない別れた彼女のための一杯を、もしつくるとしたら、とバーテンダーに訊ねた。彼はまた事も無げに「ボッチ・ボールです」と答えた。なるほど、彼女にもディサローノ。
アメリカ生まれのカクテルで、何故イタリアの球戯の名をつけたのか理解し難いが、ディサローノにオレンジジュース、ソーダの口当りのよいカクテルだ。いつまでも思いを引きずる男とは違い、立ち直りの早い女性にふさわしい味わいで、新たな陽の光を浴びているような気にさせる。
「One for My Baby」を聴きながら、遊びを満喫したわたしのためのワン・モア・フォー・ザ・ロードは「フレンチ・コネクション」となった。こちらも映画公開とともに生まれたカクテルだが、本来のロック・タイプではなく、リキュール・グラスに仕上げてくれた。温かみのあるブランデーにディサローノが甘く愛を囁き、とてもセクシーだ。
「ジョージ・クルーニーの選曲、音楽観は素晴らしいね」
バーテンダーは静かに頷く。ウッド・ベースの響きに重なるダイアン・リーブスの歌声が、雨の夜にしっとりとにじんでいく。
(「ディサローノ・アマレット」は現在取り扱っていません)