花より団子。咲き誇って見得を切り、人の心を惹きつけながらはかなく舞台を去る桜は不滅の千両役者で、あまりにも格好がよすぎる。
それに比べ、春の野の息吹が産む食材は「暖かくなりましたね。さあ、召し上がれ」と語りかけてくるような、けなげで無邪気なところがある。とくに木の芽、筍、蕗が大好きで、山里の春の香が口中から鼻に抜ける感覚が実にいい。季節の伝達者、桜公演の前口上といった風情だ。
こうした旬の食を満喫していると、無性に飲みたくなる緑色のリキュールがある。
「シャルトリューズ ヴェール」。木の芽、筍、蕗の味わいが官能を研ぎすまさせ、ハーブの宴のような香味を呼び覚ます。口中にミント系のスパイシーで甘美な味わいがよみがえると、もういけない。夜桜なんかよりもバーへ行こう、シャルトリューズを飲まなくちゃ、となる。
シャルトリューズはフランスで古くに誕生した。オリジナルレシピは1605年、パリ近郊のシャルトリューズ修道会支部に寄進された古文書に記されていた。ところが当時のパリで130種もの草根木皮を入手することは不可能だったために、そのまま文書は保存される。
紆余曲折を経てレシピが解読され、グリーン(フランス語でヴェール)の原型が誕生したのは1746年になる。フランス東南、スイス、イタリアの国境近く、グルノーブル山中のラ・グランド・シャルトリューズ修道院(本部)で完成した。
緑の酒は修道士をはじめ付近の住民が体調を崩したときの滋養強壮に、修道院に一夜の宿を求める旅人の疲労回復に重宝される。これがグルノーブルの山や谷を超えて評判を呼び、修道士たちが売り歩くまでになる。当時は薬酒として広まったようだ。
その後フランス革命をはじめ苦難の道を歩むが、このリキュールは守りつづけられた。1838年にはソフトで蜂蜜の香味が特長的な「ジョーヌ」(Jaune/黄色)が完成した。
1860年、修道院から6kmほど谷を下ったフルヴォアリに工場が建てられた。生産が本格化するとパリの上流階級が食後酒として嗜み、英国王室ではパーティーの度に供され、ヴェールはいつしか『栄光のグリーン』と呼ばれる。ジョーヌは『リキュールの女王』と称された。だが20世紀はじめ、宗教団体法により修道士たちは国外追放される。それでも彼らはスペインでつくりつづけ、ついにフランスに戻りマルセイユでつくり、やっとグルノーブルに帰郷するという波瀾万丈があった。
いま世界で飲まれているこの緑と黄の酒は、1941年にシャルトリューズ修道院から24km離れたヴォアロンの森に建てられた工場でつくられている。
ただし、原料となる薬草の配合は修道士によって秘密裏におこなわれている。レシピは門外不出。現在、グルノーブル山中の修道院にはコンピュータルームがあり、製造はふたりの修道士が遠隔操作でおこなう。工程のステップごとにサンプルが修道院に届けられ、修道士がチェックする、とも聞いた。
コンピュータで指示を送る修道士は粗末な修道服、素足にサンダルというか草履の姿だという。中世からつづくリキュールは神秘的で、時空をも眩惑する。