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Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第35回
「春遠からじ」

作・達磨信

 2月に入ってこの冬いちばんの寒さが襲っていた。仕事を終えてヒロが自宅に着いたのは土曜から日付が変わった日曜午前1時過ぎだった。帰宅しても悩ましい事ばかりがヒロのアタマのなかを堂々巡りしつづけている。
 それでもまずは身体を解そうと風呂を沸かしはじめ、沸くまでの間にPCメールやネットニュースをチェックした。風呂から上がると、深夜に胃に負担を掛けないように軽い食事を摂る。今夜はレトルトの雑炊にした。
 そこまでの流れがありながら、急に目覚めたかのように自分を取り戻したのはウイスキーのお湯割をつくりはじめたときだった。
 日曜は定休日だ。だからといって飲みすぎないように注意しなくてはならない。最近はケジメがついてきたが、以前は朝方までダラダラと飲んで、それから眠るのでベッドから出るのは昼過ぎになる。せっかくの休日の時間を無駄にすることが多かった。
 今夜はホワイトのお湯割にする。祖父の好むオールドはあえて避けた。実のところ菜々子との冬の夜の想い出もオールドのお湯割にはある。いまは彼女のことを深く考えることはできない状況になっていた。
 ホワイトはキンキンの熱いお湯で割らないほうが美味しい。歌の文句ではないけれど、少しだけ温めがいい。辛口というか、心地いいスパイシーさが感じられる。酒質によって適した湯の温度は異なる場合もあるのだ。
 さて、また想いは巡る。かつてヒロは菜々子を愛するほどに自分の拙さに苛立ちを覚え、そして彼女を解き放ってあげるべきだと結論に達した。ロンドンで植栽を学びたいという志を貫いて欲しいと願ったのだ。
 小学校の低学年で、祖父が期待をかけてくれていた剣道をキッパリと辞めてサッカーをはじめた。以来、竹刀を握ることは一切ない。高校時代、将来の日本代表FW候補ともてはやされていたが、腰を痛めながらのプレーは長くないと見極めて大学の一般受験を選び、2浪の末に大学に入学した。
 そして菜々子との関係である。彼女は大きく羽ばたける人である。彼女が愛おしむ樹木や花で多くの人々を幸せにできる。自分と暮らすことは彼女の才能や魅力を発揮する機会を失わせてしまうのではなかろうか。悩み苦しみながらも菜々子との関係を断ち切った。
 ヒロは新たな道を歩む時には常に過去を切り捨ててきた。
 いまも菜々子への愛情は変わらないけれど、彼女には自分の道を極めて欲しいと願う。ところがいま、周囲がそれを許してくれなくなっている。
 長年にわたり菜々子と母のやりとりがつづいていたことにヒロは気づいていなかった。こころの扉にしっかりと鍵を掛けたつもりでいたのに母がスペアキーを持っていて、いつでも扉は開けることができるようになっていた。
 一昨年の夏頃には菜々子の兄である高萩陽輔まで登場した。突然に店を訪ねてきた。サッカーの全国大会で戦って以来の18年ぶりの再会で、妹のことを想う兄の真っすぐな愛情を痛いほど感じた。
 どうすればいいのだ。二人はロンドンと東京にいて、互いに大切な道を歩んでいるのではないか。「いかん、いかん。菜々子のことは後回しだ」とヒロは口にする。ここへきて人生の重要な岐路に立たされ、独り言が多くなっていることに気づいてはいなかった。
 ホワイトのお湯割を一口啜ると、ほのかにスパイシーな香りが鼻をくすぐった。するとヒヤシンスの花が浮かび上がった。
 マスターの橋上清和は自分で花を活ける人である。カウンターにはいつも四季折々のゴージャスな花が飾られている。そしてトイレには赤いバラが一輪と決まっていた。ところが先日、トイレにヒヤシンスを飾ったのである。
 最近、橋上は随分と柔和になり、さまざまな面で以前と変化が出てきたのだが、バラから突然に花が変わって常連客も驚いている。
「カミさんがバラに替えて、違う花を飾ったらどうか、と。これはカミさんが育てたものなんだ」
 そう言ったマスターの心境の変化をヒロはわかっていたのだが、バラを外すことまでしなくてもよいではないかと悩ましかった。
 ヒヤシンスは意外にも香りが強くて驚いたのだが、マスターのヒロへのプレゼンテーションのひとつだと想えた。

 年が明けてすぐのことだった。
「バーテンダーを引退しようと思う。そこでだ、竹邨くん、この店を継いでくれないか」
 青天の霹靂だった。話はこうだ。マスターの奥さんの体調がよくない。転んで脚を骨折され、リハビリもうまくいかず、車椅子での生活のようだ。しかも軽い認知症も見られると知らされた。
 近くに住んでいる娘さんが面倒をみてくれたりしているようなのだが、限度がある。娘さんの息子の奥さんも働いていて、孫の世話もある。
 もうすぐ80歳を迎えようとしているマスターに娘さんは、バーテンダー人生をまっとうしてきたではないか、これからは母のためにも穏やかに二人で暮らす時間をつくってあげてもいいんじゃないか、と説得された。
「カミさんあってのわたしだ。バーテンダーとしての生き方を貫いてこられたのは、彼女が黙って支えてくれていたからだ。我が儘で十分過ぎるほど幸せな仕事人だったと自分でも納得している」
 ヒロは言葉が出なかった。将来を考えていなかった訳ではない。しかしながら名店として謳われ、伝説のバーテンダーとして世界的に知られる橋上の店を継ぐ想いなど一度も浮かんだことがない。橋上ほどの力量に達するには、志はあってもまだまだ時間が足りない。ウイスキーの熟成のようにじっくりとした年月が必要である。とにかくあまりにも畏れ多いことだ。
「突然のことで、不安ばかりが襲ってくるだろう。わたしもキミの立場であるならばためらうことだろう。でもね、竹邨くん。キミならばできる。最初はいろいろとあるだろう。常連客にもそれぞれの感慨があるだろうけれど、時を重ねれば彼らが盛り立ててくれる。わたしには確信がある」
 マスターはあくまでポジティブに捉えている。そして今年は少しずつ休みを取って行こうと考えているらしい。来年からは完全にヒロに任せるつもりだと言う。ただし当面は経理関係の面倒は見るとも言ってくれてはいる。
 店が入っているビルのオーナーとマスターは懇意であり、長年の常連客でもある。店の権利に関すことも上手くいくようにしてくれるとも言われた。
 加えてもうひとつ、この5月に酒類メーカーの手配でマスターとともにロンドンのジン蒸溜所見学の旅も待っているのだった。
 母にそのことを伝えたならばどんな動きをするかわからない。菜々子にきっと連絡するはずだ。まだまだ彼女に会うことはできない。自分としては成長した大人の仕事人としての姿を見せたい。
 ヒロの胸の内ではバーテンダーは60歳を過ぎてから人間的な味わいや品格が備わってくるとの実感がある。年月はかかるが、そこまで人として熟成してから会えることなら、との想いがある。その頃、菜々子はきっと植栽の世界を超越した国際人として生きているような気がする。ヒロの脳裏にはそんな彼女の姿がはっきりと映しだされているのだ。
 何杯目のお湯割だろうか。いつの間にか朝の光が窓際のカーテン照らしていた。驚きながらも、グラスをささやかに煌めかせるその光がヒロのこころを温めてくれているようだ。「なるようにしか、ならない、か」と呟く。
 グラスを傾ける。スパイシーなニュアンスに包まれる。春の香りが風に乗って部屋に紛れこみ、輝きを放っているかのように感じた。マスターの言葉を想い出す。ヒヤシンスは風信子、あるいは飛信子の漢字を当てるらしい。
 ヒロは窓際に立ち、カーテンに手を伸ばす。たちまち射るように鋭い朝陽を浴び、その眩しさに目を細める。春はすぐ傍に佇んでいた。

(第35回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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