作・達磨信
坂戸チーフと見習いバーテンダーの瑠璃ちゃんが冬という季節について語り合っている。飛騨地方出身の彼女が冬の楽しみや積雪時の辛さを語り、チーフは驚いたり、納得したりのやり取りを重ねている。その様子を見ているだけで良直は心地いい。まだ早い時間で客は良直一人きりだった。
いつものようにシングルモルト白州のストレートを飲みながら、白州蒸溜所も雪が降るはずだ、と雪景色を想像してみる。
瑠璃ちゃんが「雪が降る前の晩秋、落ち葉の季節があり、そして春を待ち望む雪解けの季節もある。雪の季節、わたしはその両方を想うんです。どちらかというと秋の情景への想いが強い。いろんな想い出が浮かび上がり、そこからこの雪の下に赤や黄色に染まった落ち葉がたくさんあるって想像すると、なんだか自然の循環、自然の深い営みを感じます」としみじみと語る。
良直にも子供の頃のくすぐったいような美しい秋の記憶がある。
誰もいない場所があった。稲刈りが終わった田んぼが目の前に広がる緩やかな斜面に平たくて大きな石があった。夏には草が生い茂っていたのに、初秋には見事に刈り上げられて石が顔を出す。
味噌づくりの蔵元である親友のユウちゃんこと有次の家には見事な庭があるが、上から見るとそこの飛び石に似ていて、座りご心地のいいベンチの役割を果たす。
小学3年生の秋から友だちと遊ぶ約束をしていない日は必ずそこにいるようになった。放課後はほぼ毎日一緒に過ごしていた有次が空手を習いはじめたので、彼が道場に通う水曜日と土曜日の午後は一人の時間が生まれた。
斜面の上、背後の小道は桜並木がつづいている。秋にはその並木からの木漏れ日が石のベンチを暖かく照らした。
そこに座り、背中に日の温もりを感じながら本を開くのだった。学校の図書館から借りた、良直だけの訳ありの本である。
夏休みの宿題の一つ、読書感想文を書くために借りた本がそのはじまりだった。貸出表のリストにユウちゃんの姉、いまは良直の妻となった神丘藍の名前を見つけた。美しい文字を見て何故かドキドキした。自分の心臓の鼓動が聴こえてくるほどで、手も震えていたような気がする。
そこから夏休みに突入するまでの短い期間に片っ端から本の貸出表だけを見つづけ、藍の名前を探した。思いの外、簡単な作業だった。読書感想文で毎年のように大きな賞を授与されていた彼女は大概の本を読んでいた。
貸出表に藍の署名がある本のなかから夏休みに読む3冊を選んだ。彼女が3年生のときに読んだ本であることを日付で確認したのだった。
藍はそのとき6年生だった。良直が6年生になるまでにたっぷりの時間がある。それだけで心が躍るのだった。なんだか秘密を探り当てたような気分になったし、同じ時間を共有しているようでもあった。
何の本を読んだかはあまり覚えてはいない。しっかりと読んだのはわずかであった。藍がジャンルを問わず、なんでも読んでいたことに驚かされ、そして彼女が読んだ本を手にしているだけでこころが満たされていた。
「お前さあ、いつから本好きになったんだ。うちの姉ちゃんみたいだな」
学校でしょっちゅう図書館に行くようになった良直に、あるとき有次がそう突っ込んできた。ドギマギするのを見透かされないように、「本が特別好きになったんじゃなくて、冒険ものとかさ、面白いな、って」と適当に誤魔化したはずだ。ちょうどそのときにマッターホルンに初登頂したウィンパーの登頂記を手にしていたのでうまく逃れることができた。
その日、夕暮れが近づいてきていた。本を手にしたまま、桜並木の影が田んぼに少しずつ伸びていくのをボーッと眺めていた。紅葉した桜の葉が散りはじめていて、石のベンチの斜面を染め上げようとしていた。
突然、「寒くないの」という聴き慣れた声がした。誰もいないはずの場所の背後に誰かがいた。藍だった。
慌てて本を隠そうとしたが、尻の下しか場所がない。しょうがないから脇の下に挟んだ。
「ここで本を読んでいるんだ。いい場所だね」
そう言って藍は石のベンチに腰掛け、「あら、この石、まだ温もりがあるじゃないの」と笑顔になった。いきなり右隣に座られて、良直の心臓は爆発しそうになる。彼女は友だちの家に遊びに行った帰りだと言う。
肩が触れ合いそうだった。なんの本を読んでいるのかは聞いてこない。そのかわりに息を思い切り吸い込み、そしてゆっくりと吐いてみせると、「稲刈りの後の田んぼの匂いが好き。香ばしいような感じかな。土の香りもある」と言うと、斜面を指差して、「ここも、もうすぐ桜の落ち葉の絨毯に染まっていくんだね。そしたら冬がすぐにやってくる」と大人びた口調で話しかけてきた。
良直は頭がくらくらしていた。誰もいない場所に藍が登場して幸せな気分に浸っていると、「秋の日はつるべ落としって言うからね。すぐに日が暮れちゃうよ。帰ろう、一緒に」と腕を引っ張られた。
もう少し石のベンチに一緒に座っていたかったが仕方がない。確かに西の空が紅く染まりそうになっている。
互いの家まで、歩いて10分ちょっとの距離しかない。でも、それまでは一緒にいられるが、誰かに見られたら恥ずかしいし、学校でからかわれるかもしれない。いろんな想いが交錯しながら、二人で家路を辿った。
坂戸マスターと瑠璃ちゃんは雪の積もる真冬の季節を挟んでどちらの季節の良さを愛すか、互いに気持ちを述べ合っていた。そしてマスターが良直にも意見を求めてきた。
「わたしは春の雪解けのほうをこころ待ちにするかな。どうです。どちらに想いを馳せますか」
秋の夕暮れ前に藍と過ごしたわずかな時間を反芻していたことを見抜かれないように、白州の入ったショットグラスを手にして良直は応えた。
「わたしも、秋ですかね。白州蒸溜所の紅葉樹の葉が落ちた頃に、バードサンクチュアリのある蒸溜所の森を散策したことがあるんです。わたしも自然の営みを強く感じましたね。うまく説明できないんですけれど」
そう言いながらも、良直の想いを正直に吐露する。
落ち葉の上に雪が降り積もる。朽ちていく葉のその深く下には天然水が豊かに湛えられている。そこから色彩のコントラストが浮かんでくる。それは落ち葉の色であり、森の蒸溜所が生むウイスキーの琥珀色でもあり、そして天然水の透明感でもある、と。
「蒸溜所の森を下って行くと溜池がありますよね。あそこから眺める茜色に染まった秋の八ヶ岳。あの夕焼けの美しさは忘れられません」
白州蒸溜所の晩秋の記憶をたどりながらも、藍と二人で石のベンチから腰を上げたときに目を向けた空が再び脳裏に浮かんでいた。あのとき、田んぼの向こうにある山々の稜線も美しかったような気がする。
「今日も綺麗な夕焼けになりそうだね」
藍が良直へにっこりと微笑みながらそう言った。
マスターが「ならば今夜はこちらをお試しいただきましょう」、と言ってつくったのはウイスキー・フロートだった。
「響をフロートさせました。自然の営み。自然と響き合うウイスキー。そして天然水。冬に想う季節の色感からイメージしてみました」
マスターの即興でつくりあげる創造性にはいつも驚かされる。
グラスを見つめながら、再び藍と仰ぎ見た茜色に染まる雲を良直は想い浮かべていた。少年期に眺めた、最も美しい秋の情景だった。
(第34回了)
絵・牛尾篤 写真・児玉晴希
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