作・達磨信
小庭に目をやると、はらり、はらりと雪花が舞っていた。はかなくも何か詩いかけてくるような際立つほどの白さだった。
その白さから今朝みた夢がヒロの脳裏に急によみがえってくる。
一面、瓦礫の山だった。空襲により建物は倒壊し、白濁したような灰色と黒く煤けた世界が広がっていた。
菜々子が「ここのコンクリートを退かせることができるかな」と目を潤ませて言った。ヒロは必死に歩きまわり、瓦礫の間から少しひん曲がった鉄パイプを探し当てて抜き出す。そしてテコの原理でいくつかのコンクリートの塊を退かすと乾いた土が現れた。道路脇の街路樹があった場所らしい。
ヒロの手から鉄パイプを受け取り、「ありがとう」と菜々子は言うと、土を掘り起こし、小さな苗木を植えた。その後、水遣りをしたのかどうか想い出せない。ただ彼女が発していた言葉だけが繰り返しよみがえってくる。
「もっと植えなきゃ。もっともっと、植えなきゃ」
すでに強い意志を湛えた目に変わり、口元からは白い息が漏れていた。冬だったのか。たぶん冬だったのだろう。記憶はそこで行き止まりとなる。
たしかなのは小さな苗木の緑色だ。モノクロームの世界だったような気もするが、菜々子の真っ白い息と苗木の緑はとても鮮やかだった。その白と緑が生命の証のように感じられた。
「この調子なら積もらないわね」
母の言葉にヒロは我に帰る。暖房が効いたリビングで母と息子は同じように庭に目をやり、舞い落ちる雪花を眺めていた。
もうすぐ正月を迎えようとする年末の日曜日にヒロは実家に戻った。近くに住む兄の小学2年生の息子がサッカーをやっていて、ちょっと面倒を見てやってくれないか、と頼まれたからだ。冬晴れの公園でしばらくぶりにボールを蹴ったのだが、軽いダッシュをしただけなのに筋肉痛の予兆がある。
ヒロの竹邨家は剣道一家だ。まったくもって体育会系の家柄で、祖父は名高い範士、父は大学の剣道部の監督を長く務め、いまは顧問をしている。
母は父の大学時代の2つ後輩。全日本学生で優勝した経歴を持つほどで、竹刀を構えた美しい立ち姿、面を外したときの整った顔立ちが話題になったようだ。その母をマスコミからガードしたのが父だったらしい。
兄も竹刀は手にした。しかしながら勉強がかなりできたために極めることはなかった。仕事に就いてしばらくして同僚の女性と結婚する。奥さんは大きな成績は残していないものの、偶然にも大学まで剣道をつづけた人だった。
そして兄の息子といえば、ヒロの高校時代のプレーを何かの映像で観てからはサッカーに夢中になってしまう。ヒロが憧れのプレーヤーになってしまったのだ。これで竹邨家から剣士は途絶えたか、と想えたところに、保育園の年長さんである娘のほうが、剣道をするという。負けん気が強く、幼いのに祖母と母への対抗心に燃えているらしい。
そんなひ孫の様子に祖父がいちばん喜んでいるようだが口には出さない。
実はヒロは祖父に対してこころのなかで詫びつづけてきた。剣道に夢中になれずにサッカーを選んでしまったからだ。ヒロが小さな頃、とても筋がいいから、将来は凄い剣士なる、と祖父は期待をかけてくれていた。
竹邨家にとって、とくに母はいま、久しぶりの穏やかな日々を迎えているのではなかろうか。3年前まで祖母、つまり義母の介護に長い間かかりっきりだった。体育会系の生真面目さで完璧なまでにやり遂げたといえるだろう。
周囲は、母の心身が壊れるのではないかと心配したが、本人は明るい笑顔で淡々と通した。だから祖父も父も、母には頭が上らない。
「外は雪がちらついているし、寒そうだし、久しぶりにヒロがいるし、ウイスキーを飲みたくなった」
祖父がオールドのお湯割りを飲む口実をつくり、母の顔色を伺うように言うと、「まだ日が暮れちゃいませんよ。でも、まあ、晩御飯を食べたらヒロが帰るって言っていますから、ちょっとだけ飲みましょうか。主人も久しぶりにヒロと飲みたいでしょうし」と母は応えた。
「きみも飲みなさいよ。晩御飯は早めに寿司をとろう」
父がそういうと「ダメ。ウイスキーはもちろん飲むけれど、今夜は鍋なんだから寿司はなし」と母は言い返し、ウイスキーの準備をはじめた。
祖父にはオールドのお湯割り、父母とヒロはオン・ザ・ロックである。
つまみにピスタチオとチーズ、そしてブロッコリーのサラダを手早くテーブルに並べながら、「お兄ちゃん家族も居ればよかったね」と母が言う。
「日曜夜の彼らはファミレスが多いから、いらぬ気遣いになる」
父はそう返すと、「乾杯」と軽くグラスを掲げた。皆もそれに応える。母は父よりもはるかに酒が強い。母はゆったりとノージングしてから「オールドは甘くいい香りだね」と言ってひと口啜り、いきなりヒロのほうに顔を向ける。
「そういえばこの前、菜々子さんの京都のお兄さんからお花の苗が送られてきて、庭に植えたの。ここからは見えないけど」
そう言って意味ありげにニッコリと微笑んだ。
「えっ、高萩さんとやり取りしているの」
「うーん、と実はね、伝えてなかったけれどイギリスの菜々子さんとはメールのやり取りがつづいているんだ。それで、庭の日当たりのいいところに何か彩りが欲しいんだけれど、アドバイスをお願い、って送ったの」
菜々子は竹邨家の庭の様子から、兄の陽輔さんに相談したらしく、しばらくしてビオラ・タイガーアイという花苗が送られてきたそうだ。
黄色の花弁に黒い筋がくっきりと入った個性的な品種であるらしい。耐寒性があり、育て方もきちんと書き送ってくれたという。
「なぜ、タイガーアイかというと、剣士の家系の力強さ、ヒロの芯の強さからイメージしたんだって」
母の言葉に、ヒロは何も言い返せない。どう対応していいのか戸惑う。
「菜々子さんとのこと、どうするんだい」
息子の意志を尊重して、いつもは滅多に口出しをしない父が珍しくこころのうちを伝えようとしているところに、祖父が声をかぶせた。
「ええい、まどろっこしい。結婚しちまえよ。あの娘さんはヒロには上等すぎるが、でもあの娘さんの胸の内をいちばん理解しているのはヒロなんだぜ」
「おじいちゃん。何言ってんだよ。相手はロンドン。俺は東京にいる」
「だからどうした。離れていても、婚姻届を出せばいいことだろう。語らなくてもこころはずっと繋がっているんだろう。それで十分だと思いなせい」
啖呵を切るような祖父の口調は本気度を示す。それに乗じて、かつて菜々子と触れ合った日々のことを母は穏やかに語りはじめた。
祖母の生前、菜々子は平日の仕事休みに前触れもなく花と和菓子を手に立ち寄った。我が家の粗末な白い花瓶に彼女が花を投げ入れるだけでリビングが華やぎ、そしてお茶を点て、何度も同じ話を繰り返す祖母に寄り添う。
すると義母は2、3日はご機嫌で、体調も不思議なほど良好がつづいた。
女神のように深い愛のチカラを抱いた、かけがえのない人である、と母は菜々子を称え、さらに言葉を重ねた。
「大袈裟だけど、菜々子さんは生命を宿す術を見出せる人。植栽に限らず、いろいろな面で種を蒔き、水遣りをし、成長させることができる人。ごまかしのない素晴らしい仕事ができる人。ヒロも同じ気持ちで仕事をしているからわかるでしょう。そんな素敵な女性にあなたは愛されているんだよ」
母の声に菜々子とオールドを飲んだ日々の記憶がよみがえる。彼女が背中を押してくれたおかげでバーテンダーへの道をすすむことができた。
庭に舞う雪花の姿はすでにない。しかしながら夢でみた彼女の白い息は虚空に浮かんだまま消えてはいなかった。
(第33回了)
絵・牛尾篤 写真・児玉晴希
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