作・達磨信
鞠子は充実した面持ちだった。ボスの良美も達成感に満たされていた。マスターの九谷が笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけると二人揃って「こんばんは」と明るく返す。マスターには楽しげに映ったことだろう。
良美はリザーブのロック、部下である鞠子はシングルモルト白州のハイボールをオーダーした。
マスターが手際よくつくり、微笑みながら「ごゆっくり、どうぞ」と二人の手元にグラスを置く。「ありがとうございます」と揃って頭を下げ、良美はグラスを持つと遠慮気味の声で「乾杯」と言う。鞠子もそれに応える。
しばらく他の客の相手をしていたマスターが「何か、喜ばしいことがあったようですね」と声をかけてきた。
「うん。ちょっとばかし大きくて骨の折れるイベントが今日終わったの。企画段階から終了まで、鞠ちゃん大活躍だったんだ」
「おお、それは素晴らしい。今夜は祝杯というわけですね」
落ち着いた口調ながらマスターは満面の笑みを湛えている。まるで身内の活躍を喜ぶ親戚のおじさんのような優しさを感じさせた。
「そんなー、わたしだけじゃないですよ。皆さんの働きぶりが凄かった」
鞠子はハイボールのグラスを真剣な眼差しで見つめながら言った。
「いやいや、よく仕切ったと思うよ。プロデューサーとしてのわたしの心配をよそに見事にやり遂げたから凄い」
良美からすれば若手に任せることにかなり悩んだことは確かだったが、これまで積み重ねた経験で乗り切れる確信がこころのなかに固い芯として育っていた。鞠子をチーフディレクターとすることにスタッフの誰も不安や異論を口にしなかったことがそれを物語っている。
そして会社が短期間で大きく成長できたのはロンドンへ植栽を学びに旅立った高萩菜々子の功績が大きい。しかしながら今日まで、鞠子のプレッシャーになるといけないので菜々子の名前は口にしなかったが、今夜、鞠子のほうから菜々子の思い出話を切り出した。
「入社後に菜々子さんのアシスタントをさせていただいたおかげです。お恥ずかしいのですが、まだまだ先輩の物真似でしかありません。先輩に近づきたいし、それに自分の色をどう出せばいいのか悩みつづけているんです」
鞠子の苦しい胸の内を良美はよく理解できる。
「菜々ちゃんに教わった知識や経験は何事にも代え難い。でもね、彼女を意識したらダメよ。わたしだって彼女に及ばない。別格の存在だからね」
社長である立場を超えて、良美は正直に応えた。
菜々子のお祖母様は華道、茶道の大家でいらっしゃって、彼女は幼い頃から教わってきた。実家は京都で造園業を営み、国宝級の庭園もたくさん観てきている。美を追求する眼は確かで、その審美眼、研ぎ澄まされた感性には驚かされる。それだけでなく彼女は飽くことなく学びつづけ、若くして知識、品格さえも備わっている。わたしたちの及ぶところではない。
「良美さんでもそう感じていらっしゃるんですか」
鞠子は驚いたように言うと、しみじみとした口調でつづけた。
「確かに、学びも凄いですよね。菜々子さんのアシスタントになってまだ日が浅い頃に黄金比と白銀比について説明していただいたことがありました。まったく無知なわたしにわかりやすく丁寧に教えてくださったんです」
花の専門誌に掲載されていたフラワーアレンジメントの一つの作品を鞠子は眺めながら、「全体的なバランスはいい感じだけど、なんかイマイチ伝わってこないな」と口にした。すると菜々子がそれに目を通して、「これって、まだ勉強中の方の作品ね。黄金比を誰かに教わっちゃったんじゃないかな。それにとらわれすぎていて色感、配色のインパクトが弱いし、遊びごころというか個性というか、潔さ、突き抜けたところがない」と言った。
黄金比という言葉だけは鞠子も知っていたが、理解の及ばない世界のことのような気がしていた。しかも花を生けるにも黄金比があるとは新鮮な驚きだった。鞠子が自分の無知さ加減を恥じる様子を見て、菜々子は微笑みながら優しく解説してくれた。
黄金比は1:1.618の比率を言う。物事のバランス、視覚的な美しさを引き出す比率で、近似値5 : 8で表記されることもある。長方形は縦と横の長さの比が黄金比におさまるときには美感を生むといわれている。
名刺やクレジットカード、文庫本などは大体1 : 1.6くらいの比率にある。世界的な企業のロゴ・デザインにもその比率は見られる。加えて歴史的建造物や美術品の世界に黄金比を見出すことができる。おそらく後付けではあろうがパルテノン神殿、ピラミッドなどもそうであるらしい。
ルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチはこうした理論の研究をして、名高い作品『モナ・リザ』の顔は黄金比にあるといわれてもいる。時間がある時に映画『ダ・ヴィンチ・コード』を観るといい、とすすめてくれた。
ただし容姿に関しての黄金比は白人に多く、日本人を含めたアジア人は黄金比に当てはまらないことが多いらしい。とくに日本においては大和比とも呼ばれる白銀比が美しさの審美眼として用いられている。
白銀比は1 : 1.414で約5 : 7。この比率は古代からの建築や仏像、現代ではアニメのキャラクターデザインに採用されることも多く、日本文化の象徴的デザイン比率といえる。日本独自の紙サイズB判も白銀比に近い。建築においては法隆寺の五重塔、銀閣寺をはじめ、現代では東京スカイツリーにも白銀比が採用されているらしい。仏像では興福寺阿修羅像が知られている。とくに大工道具の曲尺(かねじゃく)は白銀比の実現に多大な貢献をしている。
「これらのことを懇切丁寧に解説してくださったんです。わたし、曲尺まで購入して目盛りを確認して勉強したほどです」
鞠子は一気にそう語ると、白州ハイボールで喉を潤した。黙って聞いていた良美はリザーブのロックグラスを空けると、「菜々ちゃんらしいわね。なんだか語っている雰囲気が伝わってくるし、わたしもその場にいたかったな。素晴らしい時間を過ごしているじゃん。羨ましい」と拗ねてみせた。
同じように鞠子の語りに耳を傾けていたマスターが声をかけてきた。
「次の一杯、わたしのおすすめを飲んでいただけませんでしょうか」
「えっ、何か特別なお酒なの。飲んでみたい。鞠ちゃんもいいでしょ」
鞠子が「ハイ」と頷いたのでマスターは早速に取り掛かる。やがて二人の手元に置かれたのはウイスキーの水割りだった。
良美が怪訝な様子で「これって、どうおすすめなの」と聞いてきた。
「ローヤルの水割りです。ローヤルはジャパニーズウイスキーの創始者である鳥井信治郎の遺作であり、ブレンドの黄金比を追求して誕生したものだといわれているんです。まずはゆったりと、一口お召し上がりください」
マスターの言葉を受けて、二人はしっかりと噛み締めるように飲んだ。
「いかがですか。ちょっと濃いめにつくりましたが、甘く華やかな香り、柔らかくなめらかな口当たりでしょう」
その言葉に良美がすぐさま反応して、「まさに。余韻もすっきりと心地良いんだな。なんでこれまでローヤルをロックでしか飲んでこなかったのか。マスターもすすめてくれればいいのに」と言うと、鞠子は「ウイスキーのブレンドで黄金比を追求した人がいるのか。凄いですね」としみじみと応えた。
「水で割ってもまったくバランスが崩れない。味わいの伸びの良さ、それを実感させる。これこそがブレンドの妙、黄金比なんでしょう」
マスターがそう言うと二人とも頷き、グラスを傾ける。「これを味わえたのは菜々ちゃんのおかげだね」と良美が鞠子に投げかけた。
「黄金比でウイスキーにまで話を発展させる菜々子さんの影響力は凄い」
鞠子はそう言いながら、まるで美術工芸品に魅了されたかのように琥珀に染まったグラスの輝きを見つめつづけていた。
(第32回了)