作・達磨信
母が食後に「一緒に飲もう」と言いながら手にしたウイスキーボトルを見て津嘉崎は驚いた。いつものオールドではない。
「どうしたの。新たなウイスキーに挑戦するの。どういう気持ちの変わりようなんですか」
5角形のボトル、5大ウイスキーをブレンドした碧Aoだった。
「いやね、いまさらオールドを嫌いになんかならないよ。ただ、なんだかムシャクシャしててさ。思うところがあって、ちょっと」
母が苦笑気味に答えた。津嘉崎は次の言葉を待った。
「杏実の赤ちゃんが誕生してロンドンに一緒に行った。その間も世界では戦争がつづいていた。いまも終焉を迎える気配すらない。友章(ともあき)ちゃんが物心つかないうちに各地での戦いは終わって欲しいし、世界大戦は絶対に起こってはいけない」
ひ孫が生まれる前から、母は世界情勢を憂いていた。津嘉崎は何気ない会話から、人道危機への母の願い、想いを感じ取ってはいた。そして友章という小さくて可愛い生命を抱いてからは、憤怒といえるほどの熱い感情がマグマのように煮えたぎっているのを懸命に抑えていたようだ。
しかしながら気持ちを抑え込みながらも煮えたぎる感情の置き所がなくて疲れ果て、どうにもならなくなってきたらしい。
もともと情熱的な人である。看護師として長く看護師長を務めあげた。後輩たちから慕われ、患者に愛され、皆に捧げた献身、愛情は誰も真似できないものがあった、と聞かされている。高齢ではあるがいまも若々しい精神を保っているし、こころの持ち様は年齢とは関係ないと母は教えてくれている。
洗い物をしていた妻の友里が気を利かせ、ロックグラスとアイスペールに氷を入れてテーブルに持ってきた。ショットグラスも三つ置かれた。これは一杯目をストレートで、つまり生(き)の味わいを堪能するためである。いきなりロックだとウイスキーが氷で冷やされて香り立ちが弱くなる。
「お母さんが愛用していらっしゃるロックグラスじゃないけれど、今夜は3人同じグラスで飲みましょうよ。わたしも片づけが終わったら仲間に加わりますから、どうぞ、お先にはじめてください」
妻の言葉を聞きながら、津嘉崎はボトルの封を開けた。碧を選んだ理由はなんとなく想像できたが、母の想いや願いを吐き出させるために自らはできるだけ聞き役にまわることにする。
母は妻に「ありがとう」と頭を下げると、まずはショットグラスに碧を注ごうとしている津嘉崎にもまた「ありがとう」と言った。感情を抑えている様子が見てとれる。
「酒屋さんに行ったんだ。いつもあなた方夫婦にお酒をご馳走になってばかりいるので、夕飯を食べながらワインでも一緒に飲もうと思ってね」
「オールドを買いに行ったんじゃないんですか」
「まだ少し残っているから、大丈夫。それより売り場のウイスキー棚の前を通ったら、この五角形のボトルが目に止まったんだよ。ラベルを見て、ワールドウイスキー碧ってのはわかったんだけれど、どうしてこんな形状をしているんですか、ってお店の方に聞いたの」
店の人は丁寧に説明してくれたようだ。
香味特性の異なる世界5大ウイスキーがブレンドされているワールドウイスキーである。だから五角形。その5つとはアイリッシュ、スコッチ、アメリカン、カンディアン、そしてジャパニーズと教えられた。
母は、そんな異なる個性のものがブレンドによって上手く熟(な)れるというか、まとまって和となるものなのだろうか、と尋ねたらしい。
すると、見事に調和しており、複雑で深い味わいがあると返ってきた。それならば味わってみよう、と買い求めた。
「まったく性格の異なるものが調和する、それに惹かれたんだよ」
そう言って母は黙った。いいタイミングだったのでショットグラスを手にして乾杯の仕草を促すと、母は両手でグラスを胸の方に捧げ持ち、祈るように目を瞑る。そしてグラスを鼻に近づけると香りを確かめ、静かにゆっくりとひと口啜った。
「甘くて華やかな香りがするね。フルーティーって言うのかな、なんだかパイナップルのような香りもする。味わいはまろやか。厚みがある。ほんのちょっと燻した感じもある。うん、調和というか、品がある」
見事だった。津嘉崎よりも長くウイスキーを嗜んでいる母の評価は確かだった。ウイスキー飲みらしい香りと味わいのニュアンスを表現してみせた。
妻が席につく。彼女にもショットグラスに碧を注ぎ、あらためて3人で乾杯の仕草をした。
「お母さんは、ニュースの映像が忘れられないのよね」
母は妻のその言葉に頷くと話はじめた。
「爆破されたビルの瓦礫のなかにベビーカーらしきものの残骸があった。いいや、絶対ベービーカーだった。あれを目にして、何故に幼児も襲われ、恐怖に陥れるのか、と。子供のこころの痛みが聴こえてくる」
友章が生まれて間もなくに母と妻は二人でお金を出し合い、ベビーカーをプレゼントした。それだけに映像に敏感になり、嘆き、怒りとなる。
「あなたや友里さんは仕事を通じて支援活動をしているし、あなたはいろんな場面でコメントを求められている。でもね、経済的支援や欧米諸国の唱える停戦や対話による平和的解決が可能かどうか。泥沼化したまま報復、報復が重なるばかりで、一般市民が犠牲になり、子供たちの未来までも奪われている。どうすればいいんだい。どちらかが勝利するまで終わらないのかね」
津嘉崎は母の言葉に黙って頷くしかない。母の気持ちを鎮めたい。しかしながら長く国際政治経済学者の肩書で生きてきたものの、いま無力さを痛感している。それでも世界中の仕事仲間を通じて停戦へ向けての大きな声が広がり響きわたるように呼びかけている。
「これは友里さんとも話していたことなんだ。世界の多くの国々に女性の指導者がもっと増えることが必要じゃないかと。いま戦いをつづけている為政者たちは男性ばかりだろう。報道官にしても女性が登場することはない」
つづけて妻がフォローした。
「人間は男の子も女の子も、母親である女性から生まれてくる。自分の子供に武器を持たせたい女性がいるだろうか。もっともっと女性の指導者が登場すれば、まず戦さという危機に直面する前に抑制が効くのでは、って話していたんです。ひとたび戦いがはじまれば感情が昂ぶり、女性兵士でさえも殺戮に関わってしまうでしょう」
碧のロックで口中を潤した津嘉崎はその話を受けて、それも理想の一つと言える。ただしすぐには達成できない。時間が必要で、どんな国でも女性が平等に教育を受けられようになること。女性の地位がもっともっと高まっていかなければならない。まだまだ男性優位の社会であり、たとえ女性指導者が登場しても、男性が構築した枠組みの中でしかいまは動けないでいる。
「世界の仲間たちと何ができるか。いろいろとジレンマを抱えながらの毎日ですが、皆と話し合い、提案をつづけていきます」
こう応えるしかない津嘉崎の心中を察した母は「ごめんなさい。あなたの仕事も大変なのに」と言って、悲しげに碧のロックを口にした。
「ああ、美味しい。この碧のようにさまざまな個性ある味わいが見事に調和して、熟れていくような世界になるといい。平和って平(たいら)に和すると書くけれど、平でなくったっていいじゃない。それぞれの個性を尊重し合いながら和していくといいね」
母がそう言ってグラスを静かにテーブルに置いた。すると頷くように氷がカタッと鳴った。津嘉崎は碧の味わいをしっかりと噛みしめる。
(第31回了)
絵・牛尾篤 写真・児玉晴希
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