作・達磨信
久しぶりに9年超熟成のリッチで力強さのあるクラフトバーボンを飲んでいる。スモーキーともいえるオークの樽香、濃厚なキャラメルのような甘さとアーモンドに似た香ばしさが心地いい。
良直が今夜もシングルモルト白州の味わいに浸っていると坂戸マスターが柔らかい微笑みを湛えながら声をかけてきた。
「とても朗らかな気分で飲んでいらっしゃいますね。何か喜ばしいことでもあったのですか」
心境を見事に読み取られてしまった。相変わらずマスターは鋭い。そこからバーボンウイスキーとしては極めて長い貯蔵年数、9年超熟成のノブ クリークを飲むことになったのだ。
ついこの間、娘の結衣が9歳の誕生日を迎えた。手料理で祝いの気持ちを伝えるという妻の藍から、良直には結衣のために本を贈ってくれないかとお願いされた。そう言われても彼にはどんな本を選んでいいのかわからない。
本の選者としては翻訳家である妻のほうが相応しい。そうでなければ良直のために親しい編集者におすすめの児童書を聞いてくれれば済むのではと思うのだが、それではいけないらしい。本を愛す娘のために父親が悩みながら選んだものがいいんだ、と言う。
さらには本だけは小2扱いしてはいけない、すでに娘は高学年レベルの内容を十分理解できるらしい。
「大丈夫よ。難しいようだったら書店の人に小学校の高学年の娘に本をプレゼントしたいのだけれど、って言ってアドバイスしてもらうか、ネットで小学6年生に読んで欲しい本、とかなんとか調べてみればいい」
困惑している良直に妻は、最終的には良直も内容を理解して好ましいと感じた本を選ぶことだ、と言った。自分が子供の頃に読んで影響を受けたものでもいい、と。
悩んだ末、良直が中学生になってから読んではまったSFがらみの短編集と小6の男の子二人が夏休みに成長していく姿を描いた物語、この2冊を選んでプレゼントしたのだった。
結衣が受け入れてくれたかどうか心配だったが、今朝、良直に「パパ、ありがとう。どちらの本も面白い。2冊読み終わったら感想を聞かせるね」と満面の笑顔で声をかけてくれた。それがとても嬉しくて、昼間仕事をしている間はもちろん、夜になっても良直はご機嫌だったのである。
最近、結衣は以前と比べて良直にベタベタしてくる機会が少なくなったような気がする。なんだか妙にツンデレ、あるいは不自然なほどに距離を置いたりもする。様子が読めなくて父親として淋しさを感じていたのだった。
しかしながら時を忘れるほどに読書に没頭する娘には驚いている。以前から読書が好きではあったが、とくに小学生になってからは学校から帰るとおやつも食べずに自室に籠り、本を開くこともあるらしい。娘の姿は、妻の子供の頃とまったく同じではなかろうか。
良直は親馬鹿を承知で娘の誕生日に本を贈ったことをマスターに語った。
マスターは笑顔で話を聞いてくれると、「時を忘れる、って素晴らしい。素敵ですね。人は年齢を重ねていくうちに時計の針が気になってしまう。時計が刻む時間に囚われ過ぎてしまっている」、と言って振り返りボトル棚を見つめたのだった。そして良直が白州のロックを飲み終えるのを待って、ノブ クリークをショットグラスに注いだ。
「9歳を迎えられたご息女を祝って、9年超熟成の高品質なクラフトバーボンをどうぞ。なんだかわたしも嬉しくて楽しい気持ちになりました。時間を忘れるということは、真に自由な時間を過ごしている証ですからね」
いつになくマスターが熱く語る。良直は「ありがとうございます」と応えながら、すぐさま「なるほど」と頷いて、さて自分は自由な時間を過ごしているか、としばらく想いを巡らす。
「自由な時間、わたしにとってはマスターのお酒を飲んでいる、いまがそうかな。でも、3杯ほど飲むと、帰りの時間や仕事を含めて明日の諸々のことが気になりはじめる。束の間の自由時間です」
良直の言葉にマスターは満面の笑みを浮かべた。
「こちらこそ、ありがとうございます。束の間でもお客様が時を忘れてくださる、これこそがバーテンダーの本望です」
マスター自身がカクテルをつくったり、酒のボトルやグラスを扱ったりしていると時を忘れてしまう。だからバーテンダーの職を選び、長くこの仕事をつづけられているのだと言って、さらにこんな話をしてくれた。
時計を見る。1分がとても長く感じられる。また少しも時間が経っていないように感じたり、1時間がとてつもなく長く感じられたりもする。反対に一瞬で過ぎたかのような1時間があったりもする。時計を気にしはじめると、その度に規則正しい時の刻みを勝手に歪めてしまっているのではないか。
「何かに縛られているようで、わたしはできるだけ時計を気にしないようにしています。そして時間を忘れているときがいちばん幸せなんだと」
マスターの話を良直は理解し、「時間の話だけではなく、時を忘れる、という感覚を得て、バーテンダーという仕事を選ばれた。これは新鮮な驚きで今後忘れることはないでしょう」と応えた。
「いやいや、お恥ずかしい。でもね、カクテルのシェークやステアは瞬間の輝きのために集中します。一方で貯蔵熟成という長い年月を経て生まれるウイスキーは、永遠ともいえるような時間のなかにあるような感覚があります」
ウイスキーのエイジングはあくまで最低酒齢を示しているだけである。
たとえばプレミアムバーボンのメーカーズマークは6度の夏を過ごした熟成原酒から製品化されており、6度の夏という時の積み重ねは時計の刻む感覚とはまったく違う。
このノブ クリークにしても9年を超える年月、職人が時計を見つづけていたわけではない。それでも正しい時の積み重ねがあったからこそ、上質な香りと味わいが生まれたのではなかろうか、と楽しげに話してくれた。
「お嬢さんの、時を忘れるほどの時間を大切に見守ってあげてください。そして、わかったようなことを申しました。お許しください」
「何をおっしゃいます。今夜はいつも以上にいい時間を過ごさせていただいています。マスターに感謝です」
そう言いながら、妻の藍の仕事部屋にあるアンティークの置き時計を思い出した。本棚の空きスペースに納められている。すでに故障していて針は動かない。機能しない時計だが、妻にとっては大切なものである。
祖父母の部屋にずっとあったものらしい。修理に出す気はない。機能しないからいいんだ、と妻は言う。
「いまという時を刻まないからいいのよ。この時計のスタイリングと、止まっている針がおじいちゃん、おばあちゃんとのたくさんの想い出をよみがえらせてくれる」
彼女にとっては素敵な懐かしい記憶の玉手箱。この置き時計を見つめるその時々の心情によって、幼い頃から高校生くらいまでの笑いも涙もよみがえってくる。だからこれからもずっとこのままの姿で置いておくという。
今朝の結衣とのやり取りを横で聞いていた妻の言葉が浮かび上がった。
「あなたが選んだことで、娘にはお父さんがプレゼントしてくれた本としてずっと記憶に残る。大人になった彼女の本棚に置かれているかもしれない。背表紙が子供の頃の想い出を呼び覚ましてくれることだってある」
過去、現在、未来。妻は果てしない時を自由に行き来している。そしてマスターの語る自由な時間について、良直は気にかけたこともなかった。
また9年が経てば結衣は18歳。そのときが訪れたなら再びノブ クリークを飲もう。娘はどんな9年間を過ごすのだろうか。自由であれ、と祈る。
(第30回了)
絵・牛尾篤 写真・児玉晴希
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