作・達磨信
日曜日、久しぶりに一人きりの夕飯になった。妻の愛と二人の子供たち、二代目の両親は店の常連客からの招待を受けて、隣の市で毎年開催されている花火大会に出かけた。夏の終わりを告げる花火である。
錦一は夕方に商店街の会合があり、家族に遅れて花火会場に駆けつけるのも億劫に感じたので愛にすべてを託したのだった。
招待してくれたのは二代目からつづいている店の上客である。そのため錦一は会合に出かける前に料理をつくり、お重に詰め、十分過ぎるほどの保冷をして愛に持たせた。夕方近くに出かけるのでまだ暑さが残っている。料理が痛んだら怖い。父もそうだったが招待される側も気を遣うのである。
愛も気を遣ってくれていた。夕飯は自分でどうにかすると伝えたのに、酢の物、緑黄色野菜とポテトのサラダ、ローストビーフを用意してくれた。ウイスキーのロックをつくり、錦一は手を合わせ、食への感謝の祈りを捧げた。
腹が満たされていれば、人間は悪人にはならない。錦一はそう信じ、食べられることの幸せをいつも感じている。しかも今夜はいつも飲んでいるレッドではない。先週の日曜の夜、諒汰と彩夫妻を愛が夕飯を一緒にと誘い、手土産に持ってきてくれた角瓶の残りを味わうのだ。かなり贅沢な気分だった。
諒汰は市役所の広報として活躍している。東京の大企業からの転職に当初は勝手が違い戸惑った様子だった。それでも上手く順応し、いまでは大きな戦力となっている。
彼が企画した津嘉崎さんの義父、越水友一画伯の展覧会には国内だけでなく海外からも客が訪れた。さらには先月7月末には錦一が紹介した津嘉崎さんに依頼して市主催の講演会を開き、大好評を博した。
妻の彩のほうはパニック障害からの回復を見せ、錦一の娘、杏実の家庭教師だけでなく市のカルチャーセンターで英会話の講師を務めている。
親友が故郷に戻ってきたのでサーフィンをもっと一緒にできると思っていたのに、月1回できればいいほうだった。錦一はたまに息子とサーフィンすることで満たされない気持ちをなんとかしのいでいる。
角瓶のボトルの輝きは夏の光に煌めく海を想わせた。歴史あるウイスキーは何か懐かしさを誘い、過去を反芻させるようなこころ持ちになる。
ボトルの横には透明なガラス花瓶に薄紫の菊に似た花が生けられている。母が花火大会に出かける前に持ってきて飾ってくれたらしい。
愛の置き手紙に孔雀草とあり、中学3年生になる娘の杏実が名の由来をスマホで調べたらしく、その解説が書かれていた。
『杏実が調べました。菊科の花で、孔雀草の名は、枝分かれした茎からたくさんの花が咲くことから、孔雀の羽に見立てたもの。学名をAster hybridusと言い、ギリシャ語のasterは星を意味する。孔雀草は大輪の菊の花火のようでしょう。今夜のあなたはスターマインを見ることができない。だからこの孔雀草を花火と想い、眺めながら夕食を摂ってください』
その文面を見つめながら、錦一はどこかやるせない気持ちに陥っていた。いつの頃からだろう。夏の終わりが近づくと、何かをやり残したような、大事な物を忘れてしまったような気分になる。
とくに夏の終わりを告げる花火大会はいけない。火薬の破裂音、一瞬で消えゆく美しさ、たなびく煙。煙火の世界の儚さが、錦一のこころに刺さる。最近はこころが浮き立つことがなく、淋しさだけが募るような気がする。
子供の頃、夏休みは海に遊ぶ日々で、忘れ物といったら宿題であった。小学生のときはすべてやり遂げることができなくて、毎年先生に叱られていた。そして中高と似たような夏休みを過ごしたような気がする。サーフィンしかしていなかったのだ。
おそらく京都で修業をしていた頃、季節が秋へ移り変わろうとする時期に何やら淋しさを感じるようになったのではなかろうか。毎年8月16日におこなわれる大文字焼きで知られる五山の送り火には修業の身では見物に行くことはかなわなかったが、毎年送り火を見物した客の会話から秋へと向かう気配を感じとるようになった。
ひとつ大人になったのかもしれない。あの頃から何か忘れ物をしたような気持ちに陥るようになったのではなかろうか。
錦一を追うように京都の大学に入学した愛もお盆の時期は実家に戻ってしまっていたからその淋しさもあったのだろうか。
角瓶のロックをひと口含むと、昔の出来事がよみがえってきた。
愛とはじめて会ったのは高2の夏休みで、彼女は高1だった。海岸沿いを走る路面電車の車内で水色の涼しげなワンピースを着て、扉に寄りかかるように立っていた愛に、錦一や愛と同じ年頃の二人の男が言い寄っているのを見かけた。この地域の人間ではないことはわかった。下手なナンパに愛が嫌がっているのにしつこく絡む。見かねた錦一は扉に近づいて強い口調でこう言った。
「俺の彼女になんか用があるのか」
錦一はサーフィンで髪は短いながら潮焼けしており、顔は日焼けで真っ黒だった。目と歯だけが白く輝いていた。錦一の目力に二人の男はたじろぎ、すぐに立ち去ったのだが、愛はポカーンと口を開けて、なんなのこの人といった目で錦一を見つめていた。
愛は驚きを隠せなかったようだが、錦一のほうもなんてチャーミングな娘なんだろうと急に胸の鼓動が早くなる。そして何故か「ごめん」と頭を下げて言った。愛も「えっ、はい、いやいや」と戸惑った対応をしたのだった。
それからしばらくして、サーフィンをしているとビーチに愛が立っているのを見かけるようになった。何度かして見かねて声をかけた。
「どうしたの」
海水を浴びた身体そのままに愛に声をかけた。
「あの、先日はありがとうございました。あまりに驚いてしまい、お礼の言葉も出なかったんです。ごめんなさい。あなたと同じ中学卒業の子に、海に行けば会えるって聞いたものですから」と言って愛はペコリと頭を下げた。
「とんでもない。夏はよそ者がとくに増える。女の子にああいう声のかけ方をする奴が大嫌いなんだ。それと、中学の後輩は俺のことをサーフィン馬鹿って言ってたんじゃないか」
すると愛は微笑んで、「またサーフィンをしているところ見にきてもいいですか」と言う。錦一は夏なのに、梅や桜が一度に満開になったようにこころが躍ってしまい、クラっと目眩を覚えたほどだった。「いいよ。けどさ、日焼けには気をつけて」と、なんとか格好をつけて言葉を返した。
愛は塾の夏期講習帰りにしばしばビーチに立ち寄るようになる。錦一は声をかけることもあったが、恥ずかしくてずっと海にいることもあった。
そんな錦一の様子に諒汰がいちばん驚いていた。
「どうしてあの子と知り合ったんだ。お前凄く可愛い彼女を見つけたな」
「彼女なんかじゃない。多分趣味でサーフィンを見物しているんだろう。俺みたいな、無骨なサーフィン馬鹿に惚れる訳ないじゃんか」
それから言葉には気をつけなくてはいけない、と錦一は肝に命じた。「俺の彼女」と発したのはどう対処していいかわからず、仕方なかったにしろ、恋愛なんぞの意識はまったくなく、ひたすら勉強だけに邁進していた女の子を、その純心さゆえに突然余計なことに目覚めさせてしまったのだった。
京都の学生時代の愛は、いずれは店の女将になることを意識して、着付けを学び、着物で接客できるアルバイトばかりしていた。そして彼女のアパートには、たまに訪ねてくる錦一のために角瓶が用意されていた。
角瓶は懐かしい記憶を呼び起こし、飲み手のこころに寄り添ってくれる懐の深さがあるウイスキーなんだと錦一は実感する。
グラスを片手にベランダに出て夜空を仰ぐ。星の輝きは涼しげで、秋の気配がある。角瓶の味わいが淋しさを紛らわせ、昔の自分が愛おしくなる。
(第29回了)
絵・牛尾篤 写真・児玉晴希
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