作・達磨信
日中は春らしい穏やかな日和だった。夕方になって少し冷え込んではきたものの、それでも桜の便りを耳にする季節の気温となっている。
ヒロはカウンター席に新客のカップルを案内すると、二人から預かったスプリングコートをハンガーに掛けてクローゼットに仕舞う。その間、マスターの橋上が彼らに熱いおしぼりを手渡しながら「いらっしゃいませ」と声をかけている。そして「わたくしどもの店は、はじめてですよね」と尋ねた。
「はい。ずっとお訪ねしたくて、やっと念願が叶いました」
女性のほうがそう応え、フラワーアレンジメントの仕事をしており、先輩から、橋上マスターの活け花の腕前が素晴らしい、と教えられていたと言う。
マスターは何冊かカクテルブックを世に出している。そのなかには自らが店に活けた花の写真を随所に掲載しているものがある。
先輩は来店したことはないが、カクテルブックを見て感銘を受けたと語ってくれた。それから彼女自身も気になる数冊を買い求めたらしい。
「その先輩は庭園をはじめとして広く植栽を学ぶためにロンドンに留学されました。後を任されたわたしは、その重責に押しつぶされそうなんです」
マスターは「おやおや、それはそれは」とにこやかに返し、「わたしの活け花は我流です。母が華道の先生でした。幼い頃、家にやってくる若い女性の生徒さんたちが可愛がってくれるものだから嬉しくて、時折ですが花を活ける姿を見ていた。まあ、その真似事ですし、大昔のことです。この店の開業時には華道家に多少は教わりましたけれど」と言葉を重ねた。
いま店の入り口付近の壁際とカウンター奥の2箇所に、白っぽいような薄ピンク色をした桜の枝ものが活けられている。入り口付近に活けられたものは一本の大きな桜の木ようにしっかりと根付いているような印象を与え、カウンターのそれは枝垂れ桜のように飾られている。
「彼岸桜。エドヒガンですね。とても素敵です」
彼女はそう言って何度も頷く。実際に来店して納得、感動したのではなかろうか。目が潤んでいる。それを見てマスターはヒロに「あとは頼んだぞ」という視線を送り、彼らに微笑み返しながら一礼すると、カウンター奥の年配常連客の相手をするために元のポジションに戻った。
何故にこのタイミングでまた菜々子が登場するのか、とヒロの気分は重くなる。いまはそれどころではない。この店を継ぐかどうか一度は腹を括ってみたけれど、いまだに悩み、こころは日々揺らいでいる。
彼女は隼坂鞠子という名前で、菜々子のいた会社で働いているらしい。年齢は30歳前後に見える。男のほうは高宮誠一といってヒロと同い年くらいではなかろうか。30歳半ばは過ぎているはずだ。店舗設計を専門にしていると言った。いかにも鞠子に連れられてきた様子で、落ち着いてはいるもののレジェンドと呼ばれる橋上マスターのバーを訪ねた興奮を抑えきれないでいる。
オーダーを取る。二人とも白州ハイボールである。手を動かしはじめながら「やれやれ」とこころのなかで呟く。ただし救いはあった。鞠子にはかつてのヒロと菜々子の関係を気づかれてはいないようだ。それには安堵した。
とはいえ、菜々子がバーのカウンターを飾る花を活けていたことを知って驚いた。九谷さんのバーだった。いまは鞠子が引き継いでいるようで、二人は常連客でもあるようだ。
九谷の師匠はすでに他界しているが、その方は橋上マスターが最初に修業したバーの同僚であった。その縁でマスターは九谷のことを気にかけており、ヒロも何度か店を訪ねたことがある。九谷の奥さんが乳癌で亡くなったときにはマスターは自分のことのように嘆き悲しみ、九谷の精神面を支えた。
九谷のバーに見事な花が飾られるようになったことをヒロは覚えている。ラグジュアリーな華やぎもあれば、侘び寂びの静けさを感じることもあり、訪ねるたびに独自の世界観に魅了された。あれは菜々子の感性だったのか。
自分の店に菜々子が花を活けてくれたならどんなに素晴らしいことか。ヒロはすぐにイメージが膨らんだが、"いったい、オレは何を考えているんだ。そういうことじゃないだろう"、と自分自身に腹を立ててしまった。
「あのー、お願いがあります。季節的におすすめというか、何かお花にちなんだようなカクテルがあれば飲んでみたいのですが」
鞠子がおずおずと尋ねてきた。二人とも早いペースでハイボールのグラスを空けていた。いやいや、しばらくの間、自分の世界に入り込んでしまっていただけなのかもしれない、とヒロは反省する。
我に返り、「ウイスキーがお好きなんですか」と対応した。
二人揃って「はい」と口にすると、それに対してまた同時に互いに笑い合った。微笑ましく、とてもお似合いのカップルだ。
「ではデイジーはいかがですか。ウイスキー・デイジー」
ヒロがそうすすめると、「デイジー、ヒナギク。これからの季節にぴったりですね。しかも飲んだことがありません。是非、お願いします。誠一さんも飲んでみたいでしょう」と鞠子がはしゃぎ気味に応えた。誠一も「ええ、わたしにも是非」とヒロに目を向ける。
この二人を喜ばせようとヒロのバーテンダー魂が急速に熱していく。菜々子の九谷の店での作品、そして橋上マスターの作品にも負けない花をグラスに活けてみよう。とくに目の前のカウンター席にいるあどけなさの残るキュートな女性のためにこころを込めて咲かせよう。
ヒナギクは開花期が長く、延命菊、長命菊とも呼ばれる。英語のデイジー(Daisy)は曇り空や夜になると花を閉じてしまうことから、Day's eye(日の目)が語源らしい。花弁が多く、かつてイギリスではメジャー・オブ・ラブ(愛のものさし)として恋占いに使われたこともあったらしい。
ヒロのイメージは八重咲きのヒナギク。一重咲きとは異なり、ふんわりと可憐で手鞠(てまり)のような容姿だ。
今夜のこの二人にはライウイスキーのノブクリーク ライ7年をベースに選んだ。ライウイスキーのハーブ様のスパイシーさ、熟成樽由来のバニラ様がレモンの酸味やグレナデンの風味と上手く溶け合い、虜になるはずだ。
ノブクリーク ライ7年にレモンジュースと少量のグレナデンシロップを加えてシェークして、クラッシュドアイスを詰めたワイングラスに注いだ。スタイリングはレモンスライスを飾り、ストローを添え、ミントの葉をあしらったもので、見た目にも爽やかなキュートさがある。
鞠子が「もしかしてクラッシュドアイスが八重咲きのイメージですか。ミントの葉の緑も鮮やかで、春らしい華やぎにあふれていますね」としばらく見つめている。誠一も横で頷いている。
「ありがとうございます。さあ、どうぞ味わってみてください」
ヒロがそうすすめると、二人は同時にストローに口をつける。鞠子はたちまちに目を丸くしてヒロをみつめ、「美味しい。ほんとうに美味しいです。すっきりとした酸味のなかに独特の軽快なスパイシーさがあります。まさに、これからの季節にぴったりのカクテルですね」とまたはしゃぎ気味に言う。
最初はサワー的な味わいを楽しみ、よければ途中でストローを使いミントの葉をクラッシュドアイスに馴染ませるようにシャカシャカとグラスに入れ込んでみるように、とヒロは誘う。そうすることで、ミントジュレップのようなニュアンスの味わいへと変化する、との説明も加えた。
誠一も「これは素晴らしいですね」と感嘆してくれている。鞠子は彼のほうを向いて、「夜にヒナギクが満開になっちゃった。菜々子さんの教えは必ず大きな広がりとなるんだよね。またお勉強というか、新たな発見。それも花つながりで美味しいカクテルを味わうことができた」と言った。
つづけての「菜々子さんは凄い。とてもとても、特別な人なんだな」との彼女の言葉に、誠一は複雑な戸惑いの表情を浮かべた。
ヒロは彼の様子を目の端に入れながら、変わらない接客をこころがけた。
(第36回了)
絵・牛尾篤 写真・児玉晴希
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