Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第27回
「ピートと潮風」

作・達磨信

 ヒロのアイラモルトや蒸溜所の話に感化された伸之は、昨年6月に新婚旅行でスコットランドのアイラ島を訪ねた。以来、スモーキーなウイスキーを好んで飲むようになる。とくにアイラモルトのボウモア、そしてラフロイグを気に入っており、またアイラモルトだけでなくブレンデッドのスモーキーさのあるブランドを選択することが増えた。
 今年の冬、かなり冷え込んだ夜に店にやってきた伸之が「ホットウイスキーが飲みたい」というので、ヒロはブレンデッドスコッチのティーチャーズ・ハイランドクリームでホット・ウイスキー・トディーをつくった。するとスモーキーさが漂う味わいにたちまちハマってしまった。春近くになり、寒さが和らいでいるのにオーダーしてくるほどだった。
 今夜、伸之はスモーキーで海藻や潮の香の特性を強く抱いているラフロイグのストレートを味わっている。
 ラフロイグには薬品を想わせるヨード様とも表現される香りがある。味わいはオイリーで濃厚、やや塩っぽくてドライな後味といった強い個性が挙げられる。しかしながらバーボン樽熟成によるバニラのような甘さ、クリームのような滑らかさも潜む。
 伸之がどこまで感じ取っているかはわからないが、ヒロはこうした香味特性に、雄々しい優しさ、深遠な愛を感じていた。
 この特性を育む要因はいくつかある。まずプロセスウオーター(仕込水)はピート(泥炭)層を浸透してきたもので、極めて重要な原料である。
 また原料麦芽は専門の麦芽製造会社に委託する時代に、ボウモア蒸溜所と同様に一部ピーテッド麦芽を自前のフロアモルティングでつくり込んでいる。これは古典的な製法であり、ピート成分の溶け込んだ水をたっぷりと含んだ大麦を床に広げ、職人が8時間おきにすき返して発芽を促す。ほどよく発芽したところでキルン(麦芽乾燥塔)の下にある乾燥室で発芽を止める。
 麦芽乾燥に使用するのがピートである。湿原にあるラフロイグの専用ピートボグ(採掘場)から掘り出す。恐ろしく長い年月を経て堆積したこの泥炭はツツジ科のヘザーやコケ類、海藻などを含んで生成したものだ。
 ピートを燃やしての乾燥に30時間を要す。そのうち大麦が湿っている最初の12時間は専用ピートを焚き、ピート香をよく付着させる。次に18時間にわたりピートの熱とともに入り江から吹き込む潮風をも取り込み、この燻煙で独自のピーテッド麦芽をつくりあげていく。ラフロイグならではのスモーキーさはこうした製法にある。
 ラフロイグとは"広い入り江の美しい窪地"を言うゲール語だが、ボウモア蒸溜所と同じように目の前は海である。その風光明媚さはスコットランドの蒸溜所の中でも1、2を争うものだ。
 ヒロはかつて現地でピートから燃え上がる炎を見つめながら、潮風も香味特性のエッセンスであると実感した。

 ショットグラスを傾けながら伸之がこう言った。
「これだけ個性が強い味わいだと、カクテルには扱いにくいんでしょうね。ラフロイグをベースにしたカクテルってないでしょう」
 彼の隣でいつものようにメーカーズマークのロックを飲んでいた津嘉崎さんがヒロに目配せしながら、「ありますか」と声をかけてきた。
 ヒロはすぐに理解して頷くと、「はい、ございます。では、おつくりしましょう」と応えた。
 伸之は自分との会話にヒロが乗ってくることなく、津嘉崎さんとの阿吽の呼吸で何か事が運んでいくことを訝しく想った。気持ちを悟られないようにグラスを傾けていた。
 すると津嘉崎さんが「お楽しみはこれからですよ」とフォローしてきた。
 しばらくして2杯のミントジュレップが登場した。これからのシーズンにふさわしいカクテルであるが、津嘉崎さんとともにお気に入りとなっているメーカーズマークベースのミントジュレップであろうと伸之は想った。
 ラフロイグの話をしたいのに何故、と言いたかったのだが、津嘉崎さんは優しい眼差しを向けたままだし、ヒロは、どうぞと言うようにグラスのほうへ手を差し伸べて、洗い物に取り掛かってしまう。
 そこで伸之はようやく察して、二人にこう投げかけた。
「もしかして、ラフロイグをベースにしたミントジュレップですか」
「さあ、どうでしょう。まずはひと口」
 津嘉崎さんが笑顔で促す。
 伸之はストローに口を近づける。メーカーズマークのミントジュレップとはまた異なる爽やかな香りを感じたようだ。それでも味わってみないことにはわからない、といった様子がうかがえる。
 ひと口啜る。俄然、伸之の目が輝き、そして唸ると、矢継ぎ早に感嘆の言葉を発した。
「ラフロイグベースのミントジュレップですね。美味しい。とても美味しいです。ピーティーというかスモーキーな感覚とミントのクールな刺激が見事にマッチしている。凄い。感動しました」
 伸之の反応に納得したように二人は頷き合っている。
「これって、ヒロさんのオリジナルですか」
「いやいや。多分、昔から誰かがやっていたと想うよ。わたしの場合は、誰かに教わった訳ではなく、試してみたら見事にハマった。偶然の産物。ミントジュレップはバーボンだけでなく、古くはブランデーやラム、赤ワインなどいろんな酒がベースになった歴史があるからね」
 実は、津嘉崎さんもラフロイグベースの味わいを知っていた。ただしご自身も海外で一度飲んだことがあるといった程度のもので、多分ニューヨークのバーあたりだろうという、記憶としては曖昧なものだった。
 ただしヒロの一杯を飲んだときに、記憶にある味わいとはかなり美味しかったのである。いたってスタンダードなつくり方をしているつもりのヒロにとっては、何故に津嘉崎さんが賞賛するのかよくわからなかった。
 ひとつだけヒロが気をつけている点は、少量加えるシュガーシロップをさらに少なめに抑えていることだけだった。そのほうがラフロイグのスモーキーさがよりすっきりと爽やかに感じられる。
 香味設計としてヒロにはイメージができあがっていた。ラフロイグのピートの薫香に、入江から吹き込む潮風のようにミントを抱き込むのだ。

 これまでのやり取りと伸之の感動ぶりを見ていたマスターの橋上がここで話に加わってきた。
「わたしのような年寄りバーテンダーにはもうしなやかさがない。若い竹邨くんの柔軟性が羨ましいですよ。ウイスキーとしての味わい、ひとつの蒸溜所が生み育む味わいを楽しむのがシングルモルトだと、信念のようなものがアタマにこびりついてしまっている」
「でもそれは時代なんじゃないでしょうか。わたしだって今世紀に入ってシングルモルトのソーダ割り、ハイボールが飲まれはじめたときには驚きましたからね。たしかに以前は、シングルモルトはストレート、生(き)で味わうものだっていう固定観念みたいなものがありましたよ」
 津嘉崎さんがこうフォローした。
 山崎蒸溜所見学に出かけて以来、橋上はヒロを讃える発言をするようになっていた。突然、老いて好々爺になったのか。ヒロの胸の内で怪訝さが増していく。何があったのか。まさか、引退を考えているのではなかろうか。
 これまでは橋上はピートの炎のようにヒロのこころを熱くし、さらには潮風のようなしなやかさを見せてくれていたではないか。それが何故。

(第27回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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