作・達磨信
もう少しちゃんと菜々子の話を聞いておけばよかったとヒロは後悔しながらシングルモルト山崎のハイボールを飲んでいた。
テーブル席のヒロの前ではマスターの橋上がいつもより柔和な表情で山崎ハイボールを飲んでいる。場所はJR山崎駅前にあるダイニング&バーである。昼間はカフェ的な雰囲気があるが、料理が充実していて、また美味しい。そしてご飯は丼ものもありながら、なぜかドライカレーが人気だ。
60歳前後のオーナーシェフのはにかんだような表情での優しく穏やかな接客にも好感が持てる。ヒロは山崎蒸溜所を訪ねる度にこの店に立ち寄る。かつては菜々子ともここで食事をした。
夕方になったこの時間、二人は京都から新幹線に乗って東京に帰る前にこの店で軽く食事をすることにした。オーダーしたのは鯖のきずし、筍の木の芽和え、合鴨スモーク、いぶりがっことクリームチーズである。どの料理も山崎ハイボールのしなやかな味わいとよく合っている。
今日は平日ながら店は休みにして山崎蒸溜所を見学したのだった。社員旅行のようなものである。年に1回は、マスターは必ずこういった時間をつくってくれる。またヒロには2年に一度は10日間程度の休暇を与え、スコットランドやアイルランド、アメリカやカナダ、新鋭のフランスなどのウイスキー蒸溜所への見学に向かわせてくれる。
ヒロはマスターに感謝の念しかなかった。この恩返しはできっこない。ここまで勉強をさせてくれるとは想像もつかなかった。こんな職場は他にないのではなかろうか。
ウイスキーに造詣が深くなっていったなら、ジン、ウオツカをはじめラムやテキーラといったスピリッツについても学びなさいと言われてもいる。
幸せな環境に甘んじていてはいけない。とにかくマスターに迷惑をかけないよう、しっかりとした仕事をして、お客様に愛されるバーテンダーとなるよう努めるしかない、とこころに決めていた。
マスターの境地に達するのはどう励んでも難しい。
お昼過ぎには蒸溜所見学が終わり、マスターが山崎の歴史探訪をしよう、と提案してきた。お客様との会話が弾ませるためにも、蒸溜所の風土や歴史的背景を知っておいたほうがいい、とマスターは言った。
山崎は歴史に多くのエピソードを刻んできた土地である。大河、淀川の流れが間近にあり、大昔は山崎の津として賑わった。
名水の里としても名高い。京の都に近い山崎周辺は大昔には水無瀬と呼ばれていた。古くから皇族が離宮を設けて保養地となった場所でもある。山崎蒸溜所のほど近くに後鳥羽上皇(1180-1239)を祀る水無瀬神宮がある。
承久の乱で隠岐に流されて崩御した後鳥羽上皇の遺勅により、上皇の離宮があった跡に御影堂を建立(1240)したのがはじまりとされ、ここには土御門天皇、順徳天皇も祀られている。
境内の手水鉢に注ぐ水は『離宮の水』として環境省認定名水百選のひとつとなっており、同じ水脈の水を山崎蒸溜所のモルトウイスキーづくりの仕込水に使用している。名水百選の選定(当時環境庁)は1985年にはじまる。1923年以前に山崎の地に蒸溜所建設を決定していた鳥井信治郎の慧眼は驚異としか言いようがない。
千利休が山崎の水で茶を点て、茶室・待庵を築いた。天王山と呼ばれる秀吉と光秀の天下分け目の戦いの舞台でもあった。そして幕末、山崎の戦いもあった。大阪、京都間にある重要拠点であったのである。
JR山崎駅から山崎蒸溜所に向かう旧西国街道の道の途中に句碑がある。俳聖・松尾芭蕉(1644-1694)が1688年、『笈の小文』の旅を終えた明石からの帰りに山崎を訪れ、芭蕉は"ありがたき姿おがまむ杜若(かきつばた)"と詠んだ。ありがたき姿とは、俳諧の祖といわれている山崎宗鑑(誕生年不明、1400年代半ば過ぎ。1540年没)のことである。
ヒロの後悔は、かつて菜々子から山崎宗鑑の話をされながら上の空で聞き流したことそして、杜若がどんな花であるのかまったく興味を示さなかったことだった。句碑を前に、慌ててスマホで画像を検索して花の色やスタイリングを知ったのである。
「宗鑑は立派な武士で九代将軍足利義尚の家臣だった。ところが主君の死により剃髪して、山崎の地に暮らすようになったらしい」
博識のマスターの説明を聞きながら、菜々子も同じように話してくれたことを思いだした。
エゴマ油で繁栄していた山崎の油座を支える神人たちの後ろ盾もあり、宗鑑は連歌講などの中心的な人物となっていった。
芭蕉の句は宗鑑生前のひとつのエピソードから生まれたものだ。宗鑑が連歌師の宗長とともに三条西実隆卿を訪ねた際、杜若を折って献じたという。
身だしなみに執着はなかった人のようで、痩せてみすぼらしい姿をした宗鑑を見た卿は"手に持てる姿を見れば餓鬼つばた"と詠んだ。
芭蕉はこの卿が詠んだ句のエピソードから、宗鑑の名誉のために、また俳諧が世に広まるベースを築いた偉人への敬意を込め、「ありがたき姿おがまむ」と偲んだのだった。
また宗鑑は少年期に一休和尚(一休さん)と交流があったことから機知に富み、反骨精神も養われていたといわれており、次第に保守的な高尚さよりも俗語を使ったユーモアのある俳諧へと傾斜していった。そして晩年には『新撰犬筑波集』を編纂し、俳諧独立の祖としての評価を得るようになる。
これらのすべてをマスターが解説してくれた。
今日、マスターが案内してくれたなかにJR山崎駅の東(京都側)、宝寺(宝積寺)踏切の北側の天王山登り口に宗鑑の句碑があった。"うずききてねぶとに鳴や郭公"という句だった。
「卯月が来て根太、これは腫瘍のことで、それが疼いて泣いているホトトギスということらしい。実はこれには裏の意味があるんだよ」
これは宗鑑とともに俳諧の祖とされている知友であった伊勢神官、荒木田守武が根太にかかり泣かされていることをからかったものだとされる。
そこまでマスターは理解していることに驚かされた。
山崎ハイボールを飲みながら唐突にマスターが宗鑑の句を口にした。
「"風寒し破れ障子の神無月"。破れ障子とはね、紙がない、神がない、それと神無月をかけたもので、遊びごころにあふれている。面白いだろう」
笑いながらそう言うと、言葉をつづけた。
「わたしは餓鬼つばたのようにはなれんな。80歳が近づいているのに、なかなか枯れない。何かを目指そうとすると、すぐに欲が出て壁にぶち当たる。開き直れない。まだまだ職人として幼い気がしている」
今度は苦笑しながら言った。
ヒロには意外な言葉だった。日々、橋上マスターの仕事ぶりを見つめつづけている。確かな技術とカクテルの安定した味わい、深い酒の知識、穏やかでしなやかな接客。業界からレジェンドと評価される偉大なバーテンダー、橋上の言葉とは思えなかった。
「マスターが幼いならば、わたしはどうなるんです。勘弁してください」
正直にヒロは言葉を投げかけた。
「竹邨くん、キミは別格だよ。キミの年齢だった頃のわたしは、周囲よりも少しだけ優秀だったに過ぎない。でもキミはすでにかなりハイレベルの境地にいる。クリエイティブ能力に長けていて、それに年齢にそぐわいないほどの落ち着きがある。まさに天職なんだよ。わたしなんぞ超えていく」
この場で、橋上からこういう言葉が出るとは思ってもいなかったのでヒロはどう応じていいのかわからなかった。無言の時間が訪れ、マスターは柔和な表情で、グラスを立ち上るソーダ水の泡を見つめていた。
(第26回了)