作・達磨信
江戸切子の魚子文(ななこもん)があしらわれたタンブラーに、濃い目のウイスキーの水割が満たされている。ウイスキーはリザーブである。
昨年の年明けに良美は九谷マスターが仕事終わりにお疲れさんで飲んでいるホワイトの水割を偶然にも試すことになった。それがことの外気に入ったようで、彼女は水割を好んで飲むようになる。
そして良美はマスターに自分の青春時代に放映された懐かしいTVCMに登場したウイスキーを揃えてくれと頼む。ローヤル、リザーブ、オールド、角瓶、ホワイト、レッド、トリスとマスターが揃えると、その夜の気分によってブランドを飲み分けるようになった。
他の客がいなければCM音楽を流しているところだが、いまは生憎カウンター席がいっぱいで彼女の気持ちを満たすことはできないでいた。
ただし、今夜の良美はいつもと違っていた。悩み事でもあるのだろうか。マスターにあまり話しかけてこない。やけに静かである。
良美は青と黄色の世界の中にいた。青空の下に菜の花の畑が広がっている。彼女は菜の花が好きである。今年も時間を取って西伊豆から房総まで菜の花の見頃を追った。
これから温かくなっていく。菜の花畑に佇んでいると季節の感覚を肌で感じることができる。陽光あふれる季節がもうすぐやってくる。その高揚感が良美の心を満たす。こういう季節の移り変わりを感じたいときにはリザーブがふさわしい。
白州蒸溜所のモルトがキーとなっている。森の若葉のような爽やかさを抱いたモルトの香味がリザーブには生きている。大自然のなかで育まれた味わいはどんな季節に飲んでも良美のこころに見事にハマるのだ。
ただ、今夜は何故だろう。いつもよりは味わいが濃いような気がする。マスターがつくる水割に変化はないはずだから、良美の気持ちの問題なんだろう。
実のところ、今夜の菜の花畑のシーンにはあの人がいる。まだ幼かった一人娘の春香を抱いて黄色に染まった広大な畑のなかで笑っている。
別れた夫の姿である。すべては良美のせいで別れた。妻になれなかった、といえるだろう。自分の仕事に邁進し過ぎているのに甘く考えていた。そんな自分でも夫は愛情を注いでくれているとのおかしな自信があった。
ある日、夫が穏やかに言った。「いまのままなら、一緒に暮らす意味があるのだろうか」と。別れを言い出しながら良美のことを親身になって考えてくれている、そんな優しさが垣間見えた。怒った顔を見せたことのない人で、彼女はそんな彼の気遣いが憎らしくもあった。そして大喧嘩をしたわけでもなく、とても静かに別れた。
夫は良美の弟の先輩だった。大学時代のラグビー仲間である。試合の応援に行く度に、次第に夫との距離は近づき、就職とともにすぐに結婚した。
大学卒業後、彼は商社マンとなり。弟は企業のラグビーチームでプレーをつづけた。弟は敏感だった。
姉夫婦の状況を見事に感じ取っていた。30歳を前に引退して、副社長という立場で良美のフラワーショップの経営を担うことになった。両親が築き上げた店をさらに充実させようとしていた彼女にとっては大助かりではあったが、夫婦関係まで修復することはできなかった。
娘はまだ5歳だった。その5歳の娘を菜の花畑で抱いた夫の姿が今夜はよみがえってくる。
リザーブをひと口飲む。やはりいつもより少し濃い気がした。
今日昼間、弟がこう告げた。
「昨夜、義兄さんが亡くなった。姉さんには伝えてなかったけれど、癌だったんだ。身体の強い人だから、抗がん剤治療にも負けず、復活すると期待していたんだけれど、その後転移が見つかり、4年ほど戦って逝っちゃった」
良美は言葉がなかった。不義理をしつづけていた自分がいる。
アメリカに留学し、アメリカ人と結婚して、あちらの大学の研究所で環境問題に取り組んでいる娘からも連絡があった。夫とずっと連絡を取り合っていたことは知っていた。一方的な電話だった。
「ママ、パパが亡くなったよ。優しい、優しすぎる人だった。悲し過ぎて気持ちがおかしくなっちゃいそう。ママ、お願いだから葬式には出てね」
娘はそう言うとすぐにスマホを切った。夫と別れてしまった良美のことを恨んでいるのだろう。幼い頃から口には出さずとも、何となく感じとれる態度があった。良美はそれを観て見ぬふりをしながら、娘にできる限りの愛情を注いだ。そのために反発を見せることが度々あった。
あの人が菜の花畑で娘を抱いていたのは房総だった。夜は旅館に泊まった。その夜、旅館の窓から夜空を見上げた彼が、「おぼろ月夜だね」と言った。良美はこのときはじめておぼろ月夜がどんなものかを認識した。
そして夫が菜の花畑ではじまる唱歌『おぼろ月夜』を口ずさみはじめ、良美も一緒に歌った。穏やかで優しい素敵な歌声に良美は驚いた。
何故、あの人は再婚しなかったのだろう。イケメンで清々しさ湛えた彼ならば、相手は簡単に見つかるはずなのに。何故だったのか。
「ウイスキーの懐かしのCM音楽でも流しましょうか」
マスターが声をかけてきた。気がつくと店の客は良美一人になっていた。頭のなかが、元夫と菜の花畑のシーンでいっぱいになっていたのだ。
「このリザーブの水割、いつもより濃くない。なんだか身体の細胞という細胞に沁みる感じ」
「いや、いつもと同じですよ。今夜はどうされたんですか。何か変わったことでもあったんですか」
「お喋りのわたしが、ここまで静かだとおかしく想うわよね」
マスターはどう答えていいのかわからず、「おかわり、いかがでしょうか」と返した。
「お願い。いつもと同じ濃さでいいですよ」
良美がそう答え、そしてつづけた。
「昔ね、おぼろ月夜の姿というか空模様を教えてくださった方が癌で亡くなられたって知らせを受けたの」
そう言った途端に、良美の目から不意に大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちてカウンターを濡らした。彼女自身もかなり驚いた様子だった。マスターは驚きながらも黙っておしぼりを良美に渡すと、何事もなかったかのように水割をつくりはじめた。
「とても大切な方だったんですね。親しい人が亡くなる知らせほど辛いものありません」
マスターはそう答えながら、高校教諭で古典文学を愛していた妻から教わった、紫式部の『源氏物語』に登場する美しく華麗で奔放でもあり、光源氏を虜にした女性、朧月夜を想い起こしていた。
朧月夜の名は、平安時代前期の歌人で貴族の大江千里の和歌、"照りもせず曇りもはてぬ春の夜の 朧月夜にしく(似る)ものぞなき"に由来する。
教えてくれた妻は6年ほど前に乳癌であっけなく逝ってしまった。マスターはしばらくの間、一人になると泣いて、泣きあかしていた。
今夜は店の看板の灯をもう落とそう。誰も店には入れない。
良美が黙って過去を辿るならそれでいい。泣きたいならば泣けばいい。話し相手が欲しければ、九谷マスターがずっと相手になってあげよう。
「マスターの水割、こころのヒダに沁みるね。今夜は泣けてきたよ」
そう言って良美は顔を上げた。泣き笑いの顔だった。マスターは閉店の時間になるまで、とことん良美に付き合うつもりになっていた。
(第24回了)