作・達磨信
店の女将が鍋用のコンロの支度をしながら、「どうやら、雪がちらつきはじめたようです」と教えてくれた。鞠子は「えっ、ほんとうに。表に出て、ちょっとだけ見てきてもいいですか」と言うと、女将の「どうぞ」の声にすかさず腰を上げ、「高宮さんも、早く。雪、見ましょうよ」と誠一を急かす。
先ほどから隼坂鞠子のペースにずっと翻弄されている誠一だが、それを面白がってもいた。はじめての経験でもある。
後につづいて店の外に出てみる。鞠子は寒さに震えながらも、「アメージング!」と感嘆の声を上げる。そのはしゃぎぶりは大人なのか子供なのか。
白い花弁を想わせる雪を彼女は見つめている。純真な眼差しは、遠い空の果てから降り注ぐ白く冴えた小花の一つ一つを数えるかのようだった。
しばらくすると、おもむろに、「ムツノハナ」と呟く。
外出先での打ち合わせを終えて表へ出ると、とうに陽は落ちていた。クリスマスの喧騒が去った街の光と影をよそよそしく感じながら、誠一はコートの襟を立てる。年の瀬になっていちばんの冷え込みのなか、空腹感を覚えた。
仕事納めの明日の夜は九谷マスターのバーに行くことにしていたので、今夜はどこかで夕飯を食べて帰宅するつもりだった。さて、何を食べようか、と思案しながら歩いているところに隼坂鞠子の姿が視界に入る。
数件先のブティックから鞠子は出てきたばかりの様子だった。思わず誠一は「隼坂さん」と声をかけていた。
鞠子は驚きながらも弾むような笑顔を見せた。今日明日の二日ほど仕事が休みで、今日はショッピングを楽しんでいると言う。明後日から年始にかけては仕事がつづき、正月には大きなイベントが入っているらしい。
「そんなことより、高宮さん、お腹減っていません」
突然に鞠子が切り出した。彼女の勢いに乗せられ、誠一は素直に頷いた。
この近くに一度だけ入ったことのある料理屋さんがあって、昆布だしのシンプルな味付けの牡蠣すき鍋がとても美味しい。冷え込んできたから温まりたいし、「よろしければご一緒していただけませんか」と鞠子は言った。
愛らしいクリクリとした目で一気に想いをぶつけてこられ、しかも空腹を言い当てられたので、無条件に「ハイ、喜んで」と答える。
鞠子は「近所といっても少し歩きますけど、よろしいですか」と言った。
道すがら、昨年末に先輩の高萩菜々子と二人で、イベントの打ち合わせが延びて遅くなった帰りに飛び込みで入った店である、と教えてくれた。それが大当たりだったという。
菜々子への片思いの火種が燻ってはいる誠一だが、彼女の生き方、仕事へのひたむきな姿に対して敬う気持ちのほうが優ろうとしていた。鞠子から菜々子の名前が出るたびに、背筋が伸びるような真摯なこころ持ちになる。
生ビールで乾杯し、だし巻き玉子や蓮根とこんにゃくの甘辛炒め、柚子大根などをつまむ。鍋が仕上がる前に角ハイボールをオーダーした。女将が「レモン、絞り入れますか」と聞いてきたので、二人とも「ハイ」と答えた。
「さっき、表で雪を眺めながら、ムツノハナ、とかなんとか言いませんでしたか。願掛けか何かしたの。それとも、おまじないか何か」
「いえいえ、雪のことですよ。雪の結晶は六角形。漢数字の六と花でリッカとか読んだりもするでしょう。六つの花は雪の別称です」
「へえー、六花で六つの花。そういう詞的な表現もあるのか」
「はい。でも、ごめんなさい。偉そうに言っちゃいましたけど、六つの花、って言葉、実は菜々子さんに教えていただいたんです」
鞠子にとって菜々子は憧れの人であることがよくわかる。仕事はもちろんのことさまざまな面で強い影響を受けている。
「六角形は自然界で最も安定した形なんだよね。知ってた?」
首を振る鞠子に、自分もそんなに詳しくはないけれど、と前置きして誠一は説明をはじめた。
蜂の巣は正六角形。耐震性が重要となる建築資材もハニカム構造と呼ばれる正六角形の集合体で、ハニカムはhoneycomb、つまり蜂の巣のことだ、と。
「六角形は、丈夫。強いってことですか。凄いんですね」
鞠子が感心しているところに、角ハイボールが運ばれてきた。別の小皿にレモンのカットが載せられている。自分で好きなように絞り入れなさいということらしい。二人とも黙ってレモンを絞る。
誠一が「六つの花。六角形に乾杯」と言うと、鞠子も「乾杯」と応じた。
まずはひと口。すっきりとしたレモンの味わいにほどよい甘みが炭酸の小珠に導かれて口中で弾ける。「爽やかな口当たりですね」と鞠子が微笑み、誠一は頷いてこう言った。
「六つの花が舞う夜に飲む角ハイボールは、特別なものじゃないかな」
「えっ、どういうことですか」
鞠子が怪訝そうに返す。
「こじつけなんだけど、互いに六角形でしょ」
誠一がこう受けると、鞠子は首を傾げながら考え込んだが、すぐに目を見開いて、「ボトルのことだ。なるほど」と笑顔になる。
「亀は万年。吉祥の亀甲文様は六角形。そして角瓶は亀甲文様。味わいや品質はもちろんのこと、独特のボトル意匠もあってロングセラーをつづけているんじゃないかな。そんな気がしない?」
「高宮さん、凄い。そんなこと考えもしなかった。なんだか幸せな気分になっちゃった。今夜の食事が楽しくなっちゃう」
満面の笑みを浮かべて鞠子が言うと、それまで黙って鍋にシラタキやブナシメジ、豆腐、ネギといった食材を煮込んでくれていた女将が口を開いた。
「うちの店で幸せな気分になっていただいてありがとうございます。六角形ではありませんが、牡蠣だっておめでたい食べ物なんですよ」
驚いた鞠子が「えーっ、牡蠣っておめでたいんですか」と聞いた。誠一も女将の言葉を待った。
カキの音から、祝賀や慶賀の賀、それに喜びを当てて、賀喜(カキ)と読ませる。福を掻き寄せる、とも言って、縁起のいい食材だと教えてくれた。
「あなたたちお二人の幸せを暗示しているような夜ですね」
女将がそう言うと、「ありがとうございます。高宮さん、幸せになれるそうです。よかったですぅー」と鞠子は喜んでいる。誠一は女将の言葉に困惑したのだが、鞠子の受けとめ方はどうやら違うようで、愉快になった。
「牡蠣と春菊を入れましたので、一煮立ちしましたらどうぞ」
女将の言葉に鞠子が「わーい」と無邪気に応える。
誠一は角ハイボールのグラスに手を伸ばす。立ち上り弾ける小珠は彼女の天真爛漫さを謳っているような気がした。
(第21回了)