作・達磨信
カウンター席で良直はいつになくまったりとしていた。手元にはショットグラスに注がれたシングルモルト白州がある。
良直は精密化学メーカーの医療部門にいる。新たな開発プロジェクトの立ち上げを担い、なんとかスタートまでこぎ着けた。ほんとうの勝負はこれからであるが、今夜くらいは自分を慰労してもいいだろう。
20代は研究職だったが結婚前に医療機器の企画開発へ異動し、本社勤務となった。仕事の環境には恵まれているとは思う。
ただし、出世というものにはまったく興味がない。欲を出して歯を食いしばって頑張ってみたところで、すべてが報われる訳ではない。妻の藍と小学2年生の娘と健康で仲良く暮らすことができればそれで十分だと思う。
3歳年上の姉さん女房で翻訳家である藍の仕事ぶりを見て、教わった。彼女は自分のできることだけを淡々と、完璧にやり遂げる。欲張らず、ブレることなく、しかも仕事のなかで楽しみを見つけることが上手だ。
それが彼女の高い評価につながっている。
このバーには本社勤務となった30歳の頃から通っている。マスターの坂戸は日本のバー業界の重鎮として知られる橋上清和の右腕を長年務めた人で、40歳を超えてから独立したという。
この人とは波長が合う、と最初に良直は直感して馴染みの客となった。
はじめて訪れた時に独立からちょうど10年と聞いた。昨年に20周年を迎えたから、坂戸マスターは60歳を超えたベテランだ。いまは長く右腕だった男性が独立し、若い女性バーテンダーがアシスタントとして入っている。
時刻は8時前後だろうか。二人いた先客は、気づかないうちにそれぞれがいつの間にか帰っていった。いまは良直がカウンターに一人きりだ。多分こういう夜は9時近くなって続々と客がやってくる。そこから11時過ぎまでマスターはマシーンのようにカクテルをつくりつづけることだろう。
手際のいいその姿を見ているのが良直は好きだが、混み合う前に帰ろう。疲れている自分を実感していた。
「今夜の白州は何か故郷への誘いをかけてきましたか」
マスターが声をかけてくる。山の緑に囲まれた町で育った良直が以前、シングルモルト白州は故郷を語らせる、と言ったことをマスターは覚えていて、忘れた頃にこう切りだしてくる。「いや、まだ何も」と素直に答えながら、そういえば、しばらく故郷に想いを寄せることがなかったと気づいた。
マスターが「疲れていらっしゃいますね」と優しい微笑みを浮かべ、そしてこうつづけた。
「ご存知でしょう。若いヒョロリくんとガッチリくん。ヒョロリくんが名古屋に異動になって淋しそうにしていたガッチリくんが、先日嬉々としてやってきたんです。紅葉真っ盛りの白州蒸溜所に見学に行ってきたそうです」
このカウンター席で凸凹コンビに出会ったのは昨年の春だった気がする。オフィスビルが林立する都心の谷間でツバメを見たという話から、マスターが彼らをシングルモルト白州へと誘ったことを覚えている。それからたまに二人を見かけるようになった。ガッチリくんは身長はそんなに高くはないがラグビーのスクラムのプロップか格闘家を想わせる。
「ついに念願の白州へ。紅葉とはまたラッキーなタイミングでしたね」
「はい。森の蒸溜所に感激していて、白州は森が生んだウイスキーなんだ、と実感したようです。しかも見事な紅葉に出会った訳です」
「それは最高でしたね。いまだと白州の秋は終わり、冬の気配でしょうね」
良直はそう返して、グラスを傾けた。すると森の香りと味わいが遠い秋の記憶を呼び覚ました。
小学校の低学年、妹が幼稚園児だったから良直は一年生、いや二年生の10月の終わり頃だったはずだ。夕方になって妹が熱を出し、母に連れられて近くの医院へ行った。一人で留守番をする良直に母は「すぐに暗くなるから、玄関の灯りをつけておきなさい」と言ったが、秋の日はつるべ落とし、すぐに日が暮れた。長い時間が経ったような気がして時計を見る。思ったほど針は動いていない。父親が仕事から帰ってくる時間までにはかなり間がある。
1時間以上が経った。心細くて泣き出しそうになっていた。そこへ、「ごめんください」と玄関先で声がした。誰だろう、と慌てて出てみると、友だちの有次の母と姉の藍だった。
妹が熱を出した話を二人にしながら、淋しさに震えていたところに訪ねてきてくれた安堵感から良直は涙ぐみそうになる。涙を懸命に耐えようとした。それでも胸から鼻にかけてキュンとこみ上げてくるものがあり、鼻の奥をひきつかせながら息を吸ってなんとか踏ん張った。
有次のお母さんは「風邪が流行りはじめたらしいから、患者さんがたくさんいるんじゃないかしら。時間がかかるでしょう」と応えていたので良直の様子には気づかなかったようだが、藍の目はごまかせなかった。
藍は良直の顔を見ないようにしてこう言った。
「良直くんは凄い。有次を独りぼっちで留守番させたら、淋しくて悲しくなって、ウェンウェーンって泣いちゃうんだろうな。大変だよ、きっと」
「間違いない。大泣き。泣きっぱなしよ」
そうお母さんは返すと、藍と顔を見合わせて笑った。良直は救われた。
手提げ袋の口を広げ、中に入った大きなタッパーを見せながら、お母さんが「これはね、栗おこわ。お口に合うかどうかわからないけれど、皆さんでどうぞ」と良直に手渡した。温かくてずっしりとした重量感があった。
その後、どう時間を過ごしたのかは思い出せない。栗おこわが美味しかった記憶だけはある。ただあの時、強く印象に残っている言葉がある。
有次のお母さんが「良直くんも風邪に気をつけるのよ」と言うと、すかさず藍が「冬隣だからね」と言葉を重ねた。それから「あら、そんな季語、よく知っているわね」、「常識でしょう」、「おばあちゃんに教わったんでしょ」、「えへへ、その通り」といったやり取りをしながら二人は帰っていった。
上級生とはいえ、冬隣とか季語とか、そんな大人びた言葉を理解している友人の姉に、良直はこころ惹かれてしまう。藍の澄んだ目と澄ました横顔にときめいてもいた。そして次第に憧れの女性となっていった。
気がつくとマスターが新しいショットグラスに白州を注いでくれていた。
「今夜も白州が、故郷を語らせましたね」
マスターが優しい笑みを浮かべながら言った。
「はい。冬隣の、栗の香りの記憶をよみがえらせてくれました」
「ほう、冬隣。いい響きですね。素敵な言葉だ」
そう言いながらマスターは何か遠い記憶を辿っているようだった。
白州をひと口。清澄な森の香りが良直のこころを満たしていく。
(第20回了)