作・達磨信
キッチンで夕食の洗い物をすませた愛は、リビングに戻るとベランダにいる夫の錦一に、「冷えるでしょう。風邪引くよ」と声をかけた。
錦一はいつの間にかベランダにディレクターズチェアを持ち出し、座り込んで動かない。新たなメニューでも考えているのだろうか。外気は晩秋へ向けて日に日に下がってきている。何もベランダに出なくてもいいはずなのに。
愛は「もしかして」と呟くと慌ててキッチへと戻り、月の満ち欠けが載った壁掛けカレンダーを確認する。
ベランダに向かい、「うっかりしてた。十三夜だね」と声をかける。「愛もおいで。めっちゃ綺麗だぞ」と錦一が応え、中秋の名月も一緒に眺めたことを想い出す。店の営業を終え帰宅して、ベランダに出て愛でたのだった。
子供たちを呼ぼうとしたが、もしかして彼らは十五夜を見ていないかもしれない、と思い直す。昔は、片見月は縁起が悪い、とされていた。
子供たちは夕食後すぐにそれぞれの部屋にこもってしまう。いまは改装工事のために店は2週間ほど休業中で、愛はこのときばかりと、子供たちとの充実した時間を過ごそうと考えていたのだが想い通りにはいかない。
中2の姉の杏実は真面目に勉強をしていることだろう。小6の弟の太郎はギターだ。姉の勉強の邪魔にならないように遠慮がちに弾いてはいるが、やがて杏実がウルサイと怒りだして喧嘩がはじまる。いつものパターンだ。
義父母がすぐ近くに住んでいて、若い頃はロックにはまり込んでいた義父の持つギターに太郎が興味を示してしまった。サーフィンに加えてギターとなると、さらに勉強をしなくなる。愛の心配ごとがまた一つ増えた。
そんな想いを巡らせなから愛はやっつけで月見仕度をする。前もって教えてくれたっていいのに、と錦一を恨むが、季節の風習が意識から遠のいてしまうのは女将として恥ずかしい。緊張が緩んでしまっている。
義父母は温泉に逗留中だ。義母である大女将がいてくれたなら休業中であっても何かと顔を合わせ、今夜の十三夜にしても事前に頭に入っていたことだろう。未だに義母頼みの自分の甘さを痛感する。
十三夜には、栗名月とか豆名月とか別名がある。反省しながらも、「お月さまには、これで許してもらおう」と言って、燻製ピスタチオをほんのツマミ程度の量だけ袋から出すと、殻を一つ一つ割り、小皿に盛る。前もってそうしておかないと錦一が殻をベランダの床に散らかしてしまうからだ。
次に錦一の月見酒に、レッドのロックをつくった。
愛はベランダに出ると、「はい」とロックグラスを錦一に手渡す。
「見てごらんよ。左端がちょっとだけ欠けているのが風情なんだろうな」
そう言いながら錦一は手にしたロックグラスを見て、「どうしたんだ。いつものレッドなんだよな。レモンピールが入っているじゃんか」と驚く。
「ほら、津嘉崎さんにご紹介されたバーに行ったでしょう。わたし、いろいろアドバイスしていただいたんだ」
「あっ、おい、もしかして、あの若いバーテンダーに惚れたな」
「かもね。柔和で、でも芯が強そう。あなたに似てるところがある」
「似てねーよ。全然、似てねー。まったくもう、アタマに来るぜ」
「馬鹿じゃないの。わたし、寒いから家の中に入るね」
すると錦一は愛の腕を取り、自分の膝の上に座らせようとする。
「ちょっと、やめなって。子供たちに見られたら、どうすんのよ」
愛は怒って逃れようとするが、手にした小皿からピスタチオがこぼれ落ちそうで錦一の膝の上に腰をおろすしかない。
1年ちょっと前のことだった。津嘉崎さんのお嬢さん、杏実さんの東京での結婚披露宴に招待された。愛の長女、杏実の名前は、そのお嬢さんの名前をそっくり頂いたものである。披露宴の帰り、以前からお話をうかがっていた津嘉崎さんの行きつけのバーを夫婦で訪ねたのだ。
素敵なバーだった。橋上さんも竹邨さんも素敵なバーテンダーだった。
錦一はマスターの橋上さんに職人的な質問を熱心にしはじめ、愛は会話に入れないでいた。すると手の空いた竹邨さんが穏やかな口調で、「ご主人はウイスキーがお好きのようですね。ご自宅では何を飲まれてらっしゃいますか」と声をかけてくれた。後になって記憶をよみがえらせたときに、登場のタイミングといい、自然体での接客といい、あまりにも見事で感服したほどだ。
夫は仕事を終えて自宅に帰ると、軽いツマミを摂りながらレッドをストレートで飲む。夜遅くの強い酒は身体に負担がかかるだろうし、それにちょっとだけでも気の利いたお洒落な飲み方はないものだろうか、と愛は言った。
すると竹邨さんは、レッドのオン・ザ・ロックにレモンピールをツイスト(ひねる)して、そのピールをグラスに浮かべてみたらいかがでしょう。しなやかで華やかな印象になるはずです、と教えてくれた。
それを今夜、やっと試すことができた。ずっと想いはあったのだが、レモンの買い置きがなかったり、日々の慌ただしさもあって試しそびれていた。
実はこの夏、津嘉崎さんがお一人でお食事にいらっしゃったときにローヤルのミストをお出しできたのも、そのときのアドバイスがあったからだ。
竹邨さんを素晴らしく賢い弟のように感じた。料理屋の女将として、学ばせていただいた。津嘉崎さんが愛するバーは期待以上の心地よさだった。
「悔しいけど美味い。洒落ているよな。それにレモンピールが月見の気分を盛り上げてくれるじゃないか。まいりました」
錦一がそう驚きながら、愛が手にした小皿からピスタチオをつまむ。愛を抱くように腕を前にまわして小皿に手を伸ばす度になんだかくすぐったくて、照れ臭さを振り払うように話しかけた。
「二代目もそうだけど、家で飲むのはどうしてレッドだけなの。店では知多を試飲してハウスウイスキーに決めたし、越水画伯のローヤルの他にもいくつかのブランドを用意しているじゃない。シングルモルトだってある」
「初代の爺ちゃんからだからな。多分、親父は爺ちゃんのことが怖かったんだろうよ。レッドより高級なウイスキーを飲むと叱られるって思っていた」
「それであなたも右へ倣えしたってことなの」
「俺か。家にあったから、こだわりもなくレッドを飲んできた。モルトの味わいがちゃんと伝わってくる。それにスッキリとした切れ味がある。まあ、何よりも贅沢じゃないところがいいじゃんか。俺には十分だ」
この飾り気のなさが錦一のいいところだ。
学生時代に読んだ樋口一葉の短編小説『十三夜』を想い出す。十三夜の月光が明治の女性の置かれた立場の悲哀、陰影を映し出していた。
時代は大きく違うけれど、自分はいま十分過ぎるほどに満たされている。
感慨に浸っていると、錦一が「寒くないか」と言って抱きしめてきた。愛が嫌がるのを承知でちょっかいをかけてくる。いつもなら「いい加減にしないと怒るよ」と抗うのだが、何故か胸も目頭も熱くなった。
冴えた月光の静けさを浴びながら陽光のような温もりに包まれる。
(第19回了)