作・達磨信
津嘉崎さんがいつものように難しい顔をしてメーカーズマークのハイボールを飲んでいる。ただし、自分一人の世界に入り込もうとしているのではないことはヒロにはわかる。
右隣に座った二人の客の会話に耳をすませている。その二人が飲んでいるのは碧Aoのオン・ザ・ロックだった。
「甘くフルーティーな香りで、味わいも甘くまろやかだけどスパイシー。ソルティっていうのかな、独特の塩っぽさもある。複雑で面白い味だ」
「おおっ、ウイスキーの香りや味わいの感覚がわかってきたじゃんか」
「いやいや、キミほどにはウイスキーを飲みこなしてはいない」
「世界5大ウイスキーをブレンドしている碧のこういうソルティなニュアンスは、スコッチ、アイリッシュ、ジャパニーズのスモーキーなモルトウイスキーと、バーボンのスパイシーさといったそれぞれの個性が影響し合って生まれているんじゃないかな」
「味わいからそこまで探るのか。大したものだ」
「ごめん。竹邨さんの受け売りだよ。そうでしょう、ね」
そう振られてヒロは「わたしの推測にすぎませんが」と答えた。
すると「ブランド名は、海の碧ってことらしい。これも竹邨さんの受け売りだけど、日本から海を渡って世界へ、ってことみたいだ。そうですよね」とまた振ってきた。
ヒロが頷いたのを見て、二人は話をつづける。目の前に置かれたボトルを見つめながら、ヒロの受け売りを伝える一人がこう言った。
「ほら、ボトルネックに羅針盤のイラストが描かれているだろう」
「ほんとうだ。羅針盤には海のロマンがあるからな。ウイスキーの情緒的な感覚とよく合っている。けれど、現実は違うよな」
「うーん。どういうこと」
「いまはGPSに電子海図の時代に取って代わろうとしていると聞いたことがある。船も飛行機も、クルマにカーナビが付いているのと同じだって」
「羅針盤に頼っている時代じゃなくなってきているってこと」
「そう。ノスタルジックなものになりつつある。それでも羅針盤には大海原を航海するロマンがある。やはり、人を惹きつけるロマンがないと」
「たしかに。ロマンというか、人は情緒的な面に惹かれるからな」
「キミがウイスキーにハマっちゃったのも、職人たちが長い年月をかけて愛情を注いで生まれた、複雑な香りや味わいにロマンを感じているからじゃないのかい。非効率である製法が当たり前のようなウイスキーが、デジタルな時代とか関係なく愛されつづける理由にはこうした一面もあるんじゃないか」
二人はそんな会話をしながら碧Aoを飲み終わると帰っていった。
ハイボールを飲み終わった津嘉崎さんが照れ臭そうに、「わたしも碧を飲みたくなりました。ロックでお願いします」と言う。
ヒロが「あの方たちの話、気になりましたか」と聞くと、「ええ、とても興味深い。まだ40歳手前くらいの方たちでしょう。あの若さでウイスキーをあんなふうに語れるのは素晴らしい」と津嘉崎さんは答えた。
碧Aoのロックをつくると、津嘉崎さんは慈しむように味わう。
「彼らのコメント通りです。そして、たしかにソルティな感覚がある」
ヒロは「碧の個性というか、いいアクセントになっています」と応じた。
津嘉崎さんは「ロマン。なんだか久しぶりに耳にしたような。とても新鮮でした。ロマンか」としみじみと言う。
しばらく声をかけないほうがいい、津嘉崎さんは自分の世界に浸りきるだろうとヒロは心得ている。ところが今夜はいつもの津嘉崎さんではなかった。
「5大ウイスキーのブレンドだけでもロマンがありますね。とはいってもブレンダーはプレッシャーのほうが大きかったはずです。それでも、飲み手の側は味わいながらロマンを感じている。嗜好品の面白いところです」
「そうですね。ブレンダーの気持ちを推し量ると、プレッシャーですよね」
ヒロの返しに頷きながら津嘉崎さんはつづけた。
「完成品への明快な指針、答えはない。ブレンダー自らが香りや味わいの方向性を探り出すしかないわけでしょう。試行錯誤しながらいつしか目指すべき針路が見つかるんでしょうね。ある意味、過酷ともいえる大航海でしょう」
そう言うと津嘉崎さんは押し黙ったが、ヒロは楽しい。一人きりの津嘉崎さんと話す時間は濃密だ。高品質なウイスキーの重層感に似ている。
ヒロは津嘉崎さんの次の言葉を待った。
「ごめんなさい。自分の仕事を含めて、世界情勢やいろんなことがアタマを巡っていて、すべて言葉足らずになってしまっています。ただね、いまの自分にロマンはあるのかな、って、ちょっと」
津嘉崎さんの心情をどう受け止めていいのかわからないまま、思わずヒロは「碧でマンハッタンをお試しになりませんか」とすすめていた。
「碧で。こちらではベースはカナディアンクラブ(C.C.)でしたよね」
津嘉崎さんは怪訝な様子を見せた。
「はい。マンハッタンはライウイスキーがベースです。うちの店ではライが主体のC.C.を使ってつくりますが、碧のベースはかなりいけるんですよ」
ヒロはそう説明しながら碧ベースのマンハッタンに取りかかる。
氷を入れたミキシンググラスに水を入れ、軽くステアして氷を洗う。よく水を切ってから碧Aoとスイートベルモットを入れ、アロマティックビターズを振り入れ、バースプーンで練り上げるようにこころを込めてステアした。
津嘉崎さんが鋭い目で見つめている。真剣勝負のようでヒロはいつになく緊張しながらもカクテルグラスを満たし、マラスキーノチェリーを沈めた。最後にレモンピールを斜め上から擦り、香りをグラスに纏わせる。
津嘉崎さんは香りをたしかめると、そっと口に含む。ゆったりと舌の上で味わいを確かめる。やがて強面がゆるみ、こう言った。
「ほう、とても好ましい。碧の深みと、ソルティというか、スパイシーさが生きています。ライのようなニュアンスもあるし、ボリューム感がある」
ヒロは素直に、「お気に召して、安心しました」と答えた。
「いい夜です。碧からウイスキーのロマンへと展開し、碧がカクテルとして新たな味わいの世界で生きる。ちょっと勉強になりました」
どんな想いがあるかは知る由もないが、ヒロには津嘉崎さんの目の輝きがいまは違ってきていることがわかった。それだけでも喜びだった。
「わたしも新たな航海に挑戦しなくては。竹邨さん、ありがとう」
津嘉崎さんの言葉にヒロは感激し、感動すら覚えた。
ヒロがバーテンダー修業をはじめてまもなくにマスターで師匠の橋上清和から、「酒のわかる人に可愛がられ、信頼されるバーテンダーを目指しなさい」と言われた。それから10年が経っていた。
(第18回了)