Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第17回
「虫はつかない」

作・達磨信

 土曜日の夜10時過ぎ、店はいつになく静かになった。近所に暮らす常連客がカウンター席に一人、マスターの橋上と抑えた声で語り合っている。
 その客が登場したとき、ヒロはすぐには誰なのか気づかなかった。
 筋肉質でバランスのいい体型、しかも身長が高い。外は熱帯夜だというのに濃紺のサマー・スーツをきちんと着こなしている。
 常連客から離れた席に手を差し伸べて、「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」と招いた瞬間、ヒロの記憶の神経回路がスパークした。
 電磁波を浴びたかのような痺れを身体に感じる。その客のヒロを見つめる目だった。目ヂカラに圧倒されるものの不思議な優しさを覚えた。
 客は少し頬をゆるめると、「ありがとう」と言って丁寧に頭を下げた。
「高萩さん。高萩陽輔(ようすけ)さんですね」
 ヒロの口から懐かしい人の名前がこぼれ出た。痺れの余韻を感じながら、戸惑いよりも再会の喜びのほうが優っていた。
「覚えていてくださったんですね。竹邨さん。ご無沙汰しております」
「こちらこそ大変ご無沙汰です。すぐに気づかず、失礼いたしました。スーツ姿に惑わされました。しかし、お変わりありませんね。驚きました」
 おしぼりを手渡しながら、18年ほどの年月が流れていることを互いに確認し合う。少し間を置いてから、「何にいたしましょうか」とヒロは尋ねた。
 しだいに再会の喜びから戸惑いへと胸の内が変わろうとしていた。
「山崎をストレートでお願いします」
 高萩は迷わずオーダーし、「実は、オールドと山崎しか知らんのです」とつづけた。ヒロの脳裏に菜々子の面影がよぎる。彼女はどちらも好んだ。
 ヒロが「かしこまりました。テイスティンググラス、それともショットグラスがよろしいでしょうか」と聞くと、「バーで飲むことは滅多になくて、よくわかりません。洒落たグラスでお願いします」と柔和な笑みをたたえて高萩は答える。正直で、まったく気取りがない。
 ヒロは迷うことなく、一つのショットグラスを選んだ。下部のカッティングと上部の小さなディンプルのあしらいが王冠を想わせる。高校時代の高萩は王者の存在感があった。華やかな香りのシングルモルト山崎を満たし、強くて優しい紳士の手におさまるのに似つかわしいグラスだ。
 鉄壁のディフェンダーであった姿の記憶といまの穏やかな姿を見て、この人にはいくつ年齢を重ねても勝てない、とヒロは実感する。きちんと会話したことは一度もなく、互いに高3と高1の全国大会1試合だけの対戦だったにもかかわらず、人間的な大きさ、独特のオーラを感じるのだ。
 高萩はひと口、ゆっくりと山崎を啜る。
「美味いな。いつもより美味い気がする。竹邨さんに会えたからなのかもしれません。グラスもいいですね」
「グラスを気に入っていただけて安心しました。ありがとうございます」
 そう答えたものの、ヒロのこころは混乱していた。気まずくなるのを避けたくて、「サッカーを断念されたことを知ったときはショックを受けました。将来の日本代表だと疑う者はいませんでしたから」と投げかけた。
「竹邨さんと同じじゃないですか。まあ、わたしの場合、父が亡くなったこともある。そしてキミに強烈なシュートを決められ、庭師となった」
「あの一瞬だけほころびが生じ、高萩さんの厳しいマークがズレました」
「奢りがあったんしょう。自分を戒めていたはずでした。それでも、自分のチームは強い、竹邨という天才的なストライカーといってもまだ1年生じゃないか。どこかに甘い気持ちがあった。奢りがあれば、必ず叩きのめされます」
「高萩さんからは、そんな姿は微塵も感じられませんでした」
 ヒロの言葉に高萩は苦笑し、山崎をまたひと口啜るとこう返してきた。
「山崎には優美な気品がある。つくり手の真摯な姿が伝わってくる。奢りがないから、日本を代表するシングルモルトでありつづけているんだろうな」
 ヒロは高萩の言わんとしていることがつかめなかった。
「何故に突然、わたしが姿を現したのか、聞いてこないんですね」
 高萩のあくまで穏やかな口調の問いに、ヒロは言葉を返せない。
「山崎の味を教えてくれたのは妹です。5月にイギリスへ旅立ちました」
 ヒロは安堵した。やはり菜々子は変わることなく高い頂を目指しつづけている。表情には出さなかったが自分のことのように嬉しくもあった。
 高萩は一呼吸置くと、この店に来るまでの経緯を語りはじめた。
 菜々子が留学へと旅立った後、高萩は妻との会話のなかで、「菜々子には交際相手はいなかったのだろうか」と問うほどの意識もなく口にした。すると、「もう時効でしょうから」と妻がヒロの名を出したのである。
 これを青天の霹靂というのだろうか。ところが衝撃的だった割には悪い気持ちにはならなかった。試合後、敗れて放心状態になった自分を気遣い、「はじめて経験した強くて厳しいマークでした」と言って丁寧に頭を下げた、あの竹邨か、と不思議な縁を感じた。ヒロがバーテンダーになっているとわかり、菜々子がやけにウイスキーに詳しくなった謎が解けもした。 
 ヒロに無性に会いたくなった。高萩の妻は、ヒロの祖父は剣道の名高い範士だと菜々子から聞かされていた。そこから知り合いの剣道家のツテを頼り、なんとかヒロの実家の住所に辿りついたという。
 今日は東京で暮らす高校時代の友人の結婚式があった。この機会を利用して前日に京都から東京にやってきて、その足でヒロの実家を訪ねた。
「キミのおじいさん、奢りのかけらもない。まさに人生の達人だ。お父さんにはお会いできなかったが、お母さんも明るくて素敵な人だ」
 そして高萩は山崎を慈しむかのように味わうと、ヒロを見つめた。悲しげに映るほど優しい目をしていた。
「いまでも、妹のことを気にかけてくれていますか」
 その言葉に、ヒロは高萩の目をしっかりと見つめて答えた。
「はい。いまでも」 
 高萩は「ありがとう」と返すと、目を閉じ、そして何度か頷く。
 しばらくの沈黙があり、高萩は山崎を少しだけ啜ると、笑顔を浮かべた。
「キミの家の菜園にマリーゴールドが咲いていた。コンパニオンプランツ、虫除けとして、最初に植えたのは妹だったらしい。それから毎年、キミのお母さんは妹に教わった通りに種から育てていらっしゃるそうだ」
 こう言うと高萩はグラスを見つめ、間を置いて話をつづけた。
「この花のおかげで、息子にも悪い虫がつかないんだ、ってお母さんはおっしゃった。妹にも虫がつかないみたいですね、って二人で笑い合ったよ」
 言い終わって山崎を飲み干す高萩を見つめながら、まっすぐなまでもの妹への情愛と、何かを求める訳ではない優しさが、ヒロの胸に沁みた。
 ヒロはただひたすら菜々子の成功を祈りつづけている。そして自分はバーテンダーの道を究めつづけるしかない。その先は、神のみぞ知る。

(第17回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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