Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第16回
「電車とミスト」

作・達磨信

 愛が新たなウイスキーを津嘉崎さんの前に置く。ロックグラスの表面は霧のフィルターに覆われ、ぎっしりと詰め込まれたクラッシュド・アイスに冷えたウイスキーが満ちている。
「クールですね」
 津嘉崎さんが低く渋い声で静かに言った。
「ローヤルのウイスキー・ミストは若女将の提案です。津嘉崎さんがお見えになったらお飲みいただきたいと言いましてね」
「そんな特別扱いをしないでくださいよ」
「気を遣わせてください。それがわたしたちの楽しみなんですから。それよりも画伯のご容態が悪化しなくてよかったです」
 相手をしているのは二代目、錦一の父である。調理は三代目の息子と従業員に任せてしまい、自分は津嘉崎さんが食事をしているカウンター席の横に腰をおろし、お茶を飲みながら話しかけているのだった。
 カウンター席の客はすでにいない。しばらくすれば閉店の時間を迎える。
 津嘉崎さんご夫妻はこの日、夫人の友里さんの父、越水画伯が風邪をこじらせたため、ご実家にお見舞いにいらっしゃったという。
 画伯は80歳を超えた高齢である。友里さんのお母様も、これまで病しらずだったご主人が寝込んでしまい元気をなくされたようだ。友里さんはお母様の心労を和らげるために傍にいてあげたいとのことで、夕方近くに、「津嘉崎だけでも席は確保できませんでしょうか。せっかくだから美味しい夕飯を食べさせたいので、スペシャルはお願いできませんか」との連絡があった。
 ご贔屓のお客様の依頼ならばできる限りの対応をする。それが二代目の心意気、矜持である。事前の知らせで、津嘉崎さんがお忙しく、友里さんのご実家でしばらくお仕事をされてから遅い時間にお越しになることが救いだった。お一人分の席ならば確保できる。問題は画伯スペシャルだった。
 店の看板の会席料理を逸脱したものだ。なぜか画伯はうちの店で好物のステーキをお食べになる。「ステーキは二代目が焼いたものがいちばん」と口ぐせのようにおっしゃる。他は先付けと前菜から二、三品とお造りで十分なのだ。 
 とはいえ、慌てた。高級な和牛肉の仕入れがない日で、同じレベルのものを出さなければ、となんとか手をまわして準備したのだった。
 画伯は焼き加減にうるさく、ステーキだけはずっと二代目の仕事である。二代目は今夜、「俺は画伯のためにステーキを焼いてきた。錦一、お前は津嘉崎さんのためにこころを込めて焼け」と命じた。
 津嘉崎さんは生姜のスライスを浮かべた知多ハイボールを飲みながら、まず夏野菜をアレンジした二品と生湯葉と雲丹の出汁ジュレ、次に旬のお造りを美味しそうに平らげた。
 そしてステーキを味わう前にローヤルのミストが登場したのである。
「義父はこちらではステーキもローヤルなんですね。でも、わたしにはロックではなくてミスト。冴えた飲み口で、軽やかさへと変貌しているのにしなやかなコクがある。若女将、ありがとうございます」
 提案した責任からか、カウンターの端で不安げに様子をうかがっていた愛が着物の胸のあたりに手を当てながら、「よかったー」と笑みを浮かべた。
 ほどなくして愛は錦一から受け取ったステーキの皿を、「どうぞ。三代目の焼き加減はいかがでしょう」と津嘉崎さんの前に置いた。
 箸でひと切れ口にした津嘉崎さんは「おお、絶妙なミディアムレアです。素晴らしい。義父のお見舞いに来て、こんなに美味しいステーキを食べられるなんて、なんだか申し訳ない」と言ってローヤルのミストをひと口飲み、美味しさを実感したかのように大きく頷く。そしてふと首を傾げる。
 少し間があり、何かに気づいたかのように思わぬことを口にした。
「そうだ、あなたでした。若女将だった。老舗料亭に修業に行った三代目を追って、京都の大学に進んだ女性だ」
 愛は不意を突かれ、「いきなり、どうなさったんですか」と慌てている。
「いやね、北海道出身の若い友人がいまして、先月に結婚したんです。お相手というのがその友人を追って東京の同じ大学にすすんだそうなんです。どこかで似たようなお話を聞いたのに、それがどなただったのか思い出せなくて」
「よしてくださいよ、もう、なんですか急に。昔の話です」
 そう返しながら照れくさくなった愛は店の奥に隠れてしまった。
「ほんとうにありがたい。よくぞ錦一に惚れてくれました。わたしの家内なんか、あまりにも裁量がいい若女将に安心しきって早々と引退を決断しちゃいました。まあ、いまでも大女将と呼ばれ、時折手伝ってはくれますけどね」
 二代目が嬉しそうに言ったのはいいのだが、余計なことまで話はじめた。
「たしかね、まったく勉強しない倅(せがれ)が高校2年で、若女将は学問ができる高校の1年生の夏と聞いたような。若女将が電車の扉近くに立って海をぼんやり見ていたらしいです。そしたらひと際目立つ、とにかく上手なサーファーが目に止まった。気になってすぐに停まった駅で降りて、浜まで行って倅の姿を見つづけた、ってのがはじまりらしいんです。そうだろう、錦一」
 実際はそんな単純な話ではない。その前段階がある。しかしながら愛が自分の話をされて機嫌を損ね、営業後にしっぺ返しがくるのが怖かったので、錦一は「俺は、よくは知らん」とごまかすしかない。
「知らんってことはないだろうよ。勉強そっちのけで、波乗りばかりしていたお前に惚れてくれた人の話だぜ」
 そこで「まあ、まあ」と津嘉崎さんが間に入り、砕かれた氷の音を立ててローヤルを飲み切ってから、「これから少しずつ、明らかにしていただければわたしはそれでいいんです」と冗談ともつかないことを真顔で言う。
 愛は絶妙のタイミングでミストの2杯目をお持ちして、仕返しとばかりに悪戯っぽい顔を浮かべながらご夫妻の馴れ初めを聞きだそうとした。
「津嘉崎さんと友里さんはアメリカの大学で知り合われたんですよね」
「そう、友里がアメリカの海沿いを走る路面電車に乗っていたらサーフィンの上手な男が目に止まった。すぐに降りてビーチへと向かうと急に霧が立ってよく見えなくなった。まさかこんな強面の男だとは思わなかったらしいです」
 津嘉崎さんが淡々とこう語ると、愛は一瞬吹き出しそうになりながらも耐えて背筋を伸ばし、憤慨した様子を見せた。
「もう、わたしをからかって楽しんでいらっしゃいませんか」
 すると、よせばいいのに悪ノリした二代目がグラス表面についたミストをわざとらしく覗き込み、「アメリカでは、こんな感じの霧でしたかな」と言う。
 途端に愛が「自称ロッカーの二代目。昔のバンドのお仲間からお聞きした大女将とのいきさつ、わたしがご披露しましょうか」とさらりと言い放つ。
 津嘉崎さんが真顔の目を見開いて、「なんと、二代目はロックンロール。それは是非ともお聞きしたい」とたちまち反応し、「でしょう」と愛が返す。
 二代目は「まさか、そ、それだけは」と急に縮こまった。

(第16回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

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