Whisky Smiles Gently ショートストーリー ウイスキーは物語を映す Short Story

第15回
「陽だまりに佇む」

作・達磨信

 帰宅した九谷賢は奥の妻の仕事部屋に向かい、「ただいま。とりあえず、シャワーを浴びるね」と声をかける。毎夜のことだ。
 店から歩いて20分ほどの距離に九谷の住むマンションはある。深夜に店を締めると、荒天の日以外はスニーカーに履き替えて速歩で帰宅する。
 今夜はバスルームよりまず先にキッチンへと向かい、500mlのトリスハイボール缶を冷蔵庫に、ロックアイスの袋を冷凍庫に入れる。帰宅途中にコンビニで購入したものだ。今夜は妻の好きなトリハイを飲みたい気分だった。
 シャワーを浴びると、トレイにトリハイ缶、タンブラーを二つ、ロックアイスを入れたアイスペールを載せて妻の部屋に入る。
「今夜は、なかなか面白いことがあったんだよ。楽しい時間だった」
 そう言いながら九谷は妻と自分のグラスに氷を詰め込んでトリハイを注ぎ入れ、乾杯の仕草をしてグビッとひと口飲む。そして、心地よさそうにフゥーっと息を吐くと、微笑んでいる妻に今夜の店の様子を語りはじめた。

 菜々子さんへの思いが叶わなかった誠一くんだったけれどね、なんとか淡々と仕事をしているようだ。いまは最低でも週に一度は店に来てくれる。
 今夜も顔を見せてくれた。そして彼がとりあえずのジン・トニックを飲んでいるところに、菜々子さんの後任の隼坂鞠子さんが登場したんだよ。
 マリちゃんは店に花を活けるようになってすぐに社長の良美さんに連れられて飲みに来た。ところが今夜は一人でやって来た。なんだか嬉しくて。
 それで、誠一くんにマリちゃんを紹介したんだ。このフラワーアレンジメントは彼女の作品だよ、って。菜々子さんをよみがえらせてしまう、と一瞬ためらったけれど、わたしの店に来るからには仕方ないことだよな。
 いま飾られている花はね、小さな向日葵(ひまわり)とバラ、えーっと、他は忘れちゃった。あっ、ふわふわしたスモークツリーってのもある。
「いろいろな花の種類があって色彩豊かなのに、爽やかさ、涼しさを感じさせます。とても素敵です」
 誠一くんはそう言った。彼はね、見事に言い当てたんだ。そうなんだよ。涼しげ。わたしはそれを表現できていなかった。キミの好きなこのトリハイみたいに、レモンの風味をそよがせながらすっきりとした清涼感がある。
 マリちゃんは誠一くんの言葉に喜び、二人は会話を交わしはじめたんだ。
 誠一くんがウイスキーを飲もうとすると、マリちゃんが「わたしも同じものをいただいてよろしいでしょうか。いろんなお酒を飲んで勉強しようと思い立って、今夜来たんです」と言うじゃないか。これも嬉しかった。
 良美さんも菜々子さんもウイスキーが好きだ。菜々子さんは必ず2杯。ごくたまに3杯。それ以上は決して飲まない。店に登場したときと帰っていくときの様子が変わることがない。彼女は見事なほどキレイな飲み方をする。
 マリちゃんは多分アラサーで、年齢的にもそんなに飲みこなしてはいないけど、良美さんと一緒に来たときに酒を嗜む人であることはすぐにわかった。
 まあ、そんなことは置いといて、誠一くんとマリちゃんは初対面のぎこちなさはあるものの楽しそうに話しながらウイスキーを飲むんだ。菜々子さんとの場合は、誠一くんが話しかけるまでに随分と時間がかかった。わたしが今夜のように紹介することもなかったからね。
 マリちゃんはどこかあどけなさの残る、人懐っこい笑顔が素敵な女性なんだな。印象はキミに似ている。今夜のような様子がつづけば、誠一くんのこころから菜々子さんの存在が薄らいでいくような気がする。そう都合よく物事はいかないだろうけどさ。マリちゃんに彼氏がいないことだけを祈る。
 わかっているって。余計なお節介はしない。わたしは黙って見守るだけ。
 こう言うと、九谷はトリハイを口にしてひと息つき、再び話はじめる。
 学生時代を思い出すよな。店主夫妻、わたしくらいの年齢、もしくはちょっと上の50代半ば過ぎくらいじゃなかったかな。昼間は奥さんがメインの喫茶店で、夜はご主人がマスターとなるスナックのわたしは常連客だった。
 近所の古いアパートに住む地方出身者のわたしはお腹を空かせた学生で、時給のいい、肉体を酷使するアルバイトばかりしていた。
 店主夫妻が気遣ってくれて、昼に顔を出すと頼みもしないのにランチはいつも大盛り。夜は焼きそばやナポリタンなんかをサービスしてくれて、わたしはホワイトの水割を飲みながら、貪るように食べていたのを覚えている。
 わたしたちと同じように夫妻に子供がいなかったから、息子のように可愛がってくれた。そして大学4年生になったある日、大学2年生のキミが昼間のバイトに入ってきた。
 近所に暮らしていたキミは、夫妻とは幼い頃からの顔馴染みだった。
 キミがいるときに、いつも大盛りに食らいついている自分が恥ずかしくなってね。あるとき「普通盛りで」と言ったらママさんにすっかり見透かされていて、「いつもの賢ちゃんでいいのよ」って普段通りに大盛りが出てきた。
 早い話、一目惚れ。店に立つキミをはじめて見たときに、目の前が急に明るくなった気がした。花にたとえるなら、向日葵のような朗らかさっていうのかな。そして会うほどに陽だまりのような安らぎを感じたんだ。
 うん、自分でもこんな話をするのは恥ずかしい。でも、まあ、聞きなよ。
 キミが20歳を迎えた夜、店でお祝いをしたのを覚えているかい。「ちょっとだけ、お酒が飲みたい」とキミは言った。「無理しなくていいよ」と返したマスターに、「お父さんのトリスを飲んでみたいんです」とキミははにかんだ。
 あのときマスターがキミのためにつくったのがトリハイだった。
 常連客にトリスのロックばかり飲むおじさんがいて、わたしのちっぽけな悩みをよく聞いてくれていた。現実のアンクルトリスがキミの父親だったから驚いたよ。学生のわたしがホワイトを飲んでいて恐縮していると、「人それぞれなんだから、気にすることはない」とお義父さんはとても優しかったんだ。
 お義父さんは「トリスバー全盛の学生時代から、プライベートではずっとトリス。大衆ウイスキーの権化みたいなトリスは、調子のいいときは驕るなと戒め、苦しいときは我慢のときと励ましてくれる」とおっしゃった。
 まさに昭和の男。来年は80歳じゃないか。傘寿のお祝いをしようね。
 わたしは大学を卒業するとマスターに紹介されたバーで修業を積んだ。古典文学を愛していたキミは高校の教諭免許を取得して国語の先生になった。そしていまに至る、ってか。思い返すと、楽しい時間がいっぱいあったよな。

 満たされたかのように話し終えた九谷は自分のトリハイを飲み干し、妻のグラスに手を伸ばす。
 九谷は事あるごとに遺影に収まった妻に話しかける。写真のなかで穏やかに微笑んでいる彼女は、5年前に乳癌で亡くなった。嘘のようにあっけなく逝ってしまい、彼女の面影は彼のこころに濃く焼きついたままだった。
 妻のトリハイをひと口。陽だまりの味わいが口中に広がる。

(第15回了)

絵・牛尾篤 写真・児玉晴希

WHISKY on the Web